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無理しないでいいよという声かけ
きっかけ
担当療法士さんが高次脳機能障害当事者会に参加されたとのことでその感想をブログにされました。
この中で
「無理しないでいいよ」と言われることは当事者にとってショックであることを学び、当事者がどう感じているかを確認する・考えることの重要性を感じたと述べられています。
なぜ「無理しないでいいよ」という声かけが当事者にとってショックなのでしょうか?
戦力外通告
ある方から"大病にかかって手術を受け会社に復帰したら「無理しないで」と上司に言われ、それが「戦力外通告」のようにと感じた"と聞いたことがあります。
病気をするまでは「大変だと思うけれど頑張って」と言われていたのが「無理しないで」に変わった。
闘病中、自分の仕事は周りの人が請け負ってくれており、言葉通り自分の身体を気遣っての言葉だと理解はしていたといいます。それでも、遠回しに"以前のように仕事を任せられない"と言われたように感じてしまったそうです。
気遣いの言葉がこんな風に聞こえることもあるのだとその時思いました。
無理をせずには出来ない
私は「無理しないでいいよ」と言われると「無理しないで何が出来るの?」と思ってしまうことがあります。
今まで何気なく行っていた、電話で問い合わせる、電車の時間を調べて予定を立てる、買い物に行ってご飯を作る、etc.全てが無理とまではいかなくても頑張らなければできません。
そしてそこにもう一つ何かが加わったら、例えば電話をしながらメモをとるとなったら、私には無理をせずには出来ないことです。
精神状態によっては「無理しないでいいよ」と言われると、無理しなければ出来ないことをわかってもらえないのだろうか‥と卑屈になってしまう自分がいることに気がつきました。
心配される立場に
「無理しないでいいよ」と言われると心配される立場、気遣われる立場になってしまったことを実感してしまいます。
発病するまで対等だった夫婦関係が後遺症を負ったことにより対等で無くなったように感じることがあり、「無理しなくていいよ」という声かけが、何か庇護の元に置かれてしまったように思えて惨めになる時があります。
見守る必要性
「無理しないでいいよ」と言われることが当事者にとってショックであると知り、療法士さんは「見守る勇気が必要」と考えられたようです。
家族からすると心配で発する「無理しなくていいよ」という言葉には、「無理しないで」という気持ちが込められているように思います。
けれども当事者は、あと一歩頑張ったらもしかしたら以前のように出来るのでは?時にはそんな期待を持ってしまいます。が、こういう場合にはとにかくやってみて、無理だと自分で悟るより仕方がないような気がします。
自分に何が出来て何が出来ないのかまだわからない頃は色んなことにチャレンジしては失敗して毎日のように泣いていました。でも振り返るとそうやって自覚したからこそ諦めがついたように思うのです。
もしあの時「無理しないでいいよ」と家族にストップをかけられていたら、私は「やれば出来るかもしれない」といらぬ期待を持ち、未だに前を向けないでいたかもしれません。
ただ、出来ないと嘆くであろう未来が見えているのに、何も言わずに見守るだけの家族の心境はいかばかりでしょう。
それでも私は手を出さずに「見守る勇気」は必要と思っています。
療法士さんはどういうシチュエーションで「見守る勇気」が必要と思われたのか聞いてみたいです。
どう感じているかを発信すること
療法士さんに相談事をした時は必ず私の意思を確認されます。ちょっとした話でも「みどりさんはその時どう思ったんですか?」と気持ちを聞かれます。
そんな療法士さんでも「無理しないでいいよ」という言葉が当事者にはショックだとは思わなかったことにちょっと驚きました。
そう言えば療法士さんから「無理しないでくださいね」や「休み休みやって下さい」という声かけをされたことがあるな‥と思いました。
でも「声かけをされたことがあるな‥」という程度の記憶なので、別に私にとってショックな声かけではなかったのだと思います。
でも、自分の状態や話題によってはショックを受けることがあるかもしれません。
今回、療法士さんのブログを読んで、私たち当事者の側からも自分の思いを積極的に伝えるべきではないかと思いました。
それは支援者や家族に対してだけでなく一般の人に対してもです。
患者はどう感じているのか?といつもアンテナを張っている担当療法士さんでさえ想像がつかない当事者の気持ちがあるのだとしたら、それは当事者自身が言語化して気持ちを伝えるしかないと思います。
また、自分が健常者であった時に、自分が良かれと思って発した言葉を当事者がどう感じるか考えていたかと言えば答えはNOですし、もしかすると自分の思いもしないところで当事者を傷つけていたかもしれない‥そう思います。
だから、当事者がどんな声かけに喜び悲しむのかきちんと言葉にして伝えることは大切だと思うのです。
そして私たちの側から発信していくと共に、家族や支援者の方々にも当事者会などに積極的に参加して、当事者の声に耳を傾けてもらえたらと思います。