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眠れぬ夜に

昨日、神経理学療法士学会のイベントに当事者として参加した。

そこでおそらく同じ当事者として参加していたのであろう杖歩行の方に声をかけられた。
"綺麗に歩けていいですね"と。

なんと返したら良いのか分からず
"ああ、どうも"
そう答えていた。

回復期、スクワットやジャンプをする私を見て同じ脳疾患仲間の人に
"いいな、俺もジャンプしてえ"
そう言われた時も何と返していいか分からなかった。

くも膜下出血だったにも関わらず私の麻痺は軽い。傍目には後遺症があるとはわからないほどである。

そのため、当事者会に出ると時折、居心地の悪さに襲われる。
"私はここにいていいのだろうか?と。
まるで健常者の中に一人いる時のように。

そしてイソップ物語の「鳥と獣とコウモリ」のコウモリみたいに自分はどこにも属さない人になってしまったように感じてしまう。

健常者でもなく障害者でもない自分。私はどこに属したらいいのだろう?
どこへ行ってもマイノリティのような気がする。

"綺麗に歩けていいですね"と言われたとき、実は私の身体はかなりの痛みを抱えていた。歩くたび麻痺した左半身が疼いていた。

イベントの中で杖の展示があり試させてもらったら左半身の痛みがぐっと楽になった。
"これが使えたら‥"そう思った。

けれども左半身の痛みは楽になるのに対し、肩関節周囲炎と腱鞘炎を抱える右上肢が悲鳴をあげてしまう。
"やっぱり杖は無理か‥"

高次脳機能障害となり見えない障害の辛さを知ったが、痛みや痺れも同じで外からは見えない。

だから"綺麗に歩けて‥"と言った杖歩行の人が、痛みを抱えながら歩いているのかどうかは私にはわからない。

それ以前に、痛みは定量化できない。
毎日のように"痛い"と口にしてしまい家族に顔をしかめられると"私は痛みに弱いのだろうか"と思ってしまう。

だからリハビリで身体に触れてもらい、"これは痛いですね"と言われると痛みが理解してもらえたようで、"痛い"と言っていいと許可されたようでちょっとほっとする。

自分と同じくも膜下出血を発症した友人が二人いるがどちらも後遺症がないとのことで"羨ましい"といつも思ってしまう。
けれども、もしかしたらその気持ちは"綺麗に歩けて"や"俺もジャンプしてえ"と言った人と同じなのかもしれない。

後遺症がある人もない人も、重い人も軽い人も、みんな発症時は生死の境を彷徨っていたのがここまでになったのに、人を羨む気持ちが出てきてしまうのはどうしてなのだろう?

夜中の3時、ちょっと無理しすぎたのか痛みで目が覚めてしまい、そんなことをとりとめもなく考えた。

もう一眠りできるかな。
"夜が明けたら元の身体に戻ってないかな"
やっぱりまだ夢見てしまう。