【読書】『学力喪失ー認知科学による回復への道筋』
今井むつみさんの『学力喪失』(2024,岩波新書)を読みました。正直この本を読んだとき、モヤモヤしました。教員としての自分に様々な感情が湧き起こったせいでしょう。
しばらくすると、算数の授業での子どもの見方が少し変わっていることに気が付きました。この本を読んだことが影響しています。
この本による学びから、自分が強く主張したいと思ったことは、「学習指導要領」の内容の削減と授業時間の余白の創出です。どんなことを考え、どんな読書体験を経てそのように感じたのか書いていきたいと思います。
本書の概要
本書の著者である今井むつみさんは慶応義塾大学の教授で、言語の修得に関する書籍をたくさん書かれています。「人はどのようにして学ぶのか」ということを認知科学の観点から解き明かそうとしています。
本書は、2022年に出された『算数文章題が解けない子どもたち』(岩波書店)という書籍の続編のような形でまとめられています。学びのつまずき(特に算数におけるつまずき)をどう理解し、どう対応したらよいかということについて書かれています。筆者は、「たつじんテスト」という算数の理解度をみるテストを開発し、その結果を分析することで子どもたちがどのようにつまづいているのかを理解しようとしました。「たつじんテスト」は小学生向けに開発されましたが、中学でもそのニーズがあるということで、裾野を広げて研究を続けています。
学校のせいで学力を喪失しているのか
この本で自分が最初に疑問に感じたことは「学校のせいで学力を喪失しているのか」ということでした。
もちろん、筆者は「学校のせいだ」と主張しているわけではないと思いますが、至るところで学校の指導の問題点が取り上げられているため、現在の社会的な学校批判の論調に傷ついている自分としては読むのがしんどかったです。
例えば、「算数の学習の前提なのに実は意味がよくわかっていないことば」について触れられた内容の部分。「驚くほど正答率が低かった意外な言葉」(P.117)として「ひとしい」という言葉が挙げられていました。「たつじんテスト」では、「ひとしい」という言葉の意味を3つの選択肢から選ぶ問題があり2・3・4年生がそれに回答しました。その結果、2年生の正答率が36.2%、3年生の正答率が32.5%、4年生の正答率が95.4%でした。
この結果に対して、筆者は『ケーキを切れない非行少年たち』(宮口幸治,2019)を引用しながら、非常に問題があるということを述べています。
4年生になると正答率が95%を超えていることについては、「もしかしたら、「ひとしい」の意味を学校で説明されたばかりだったのかもしれない」(p.119)とあります。
小学校教員である自分の感覚として、この2~4年生の正答率は納得のいくものであり、意外性を感じませんでした。「ひとしい」は2年生が普段使うことのない言葉であり、その言葉の意味を2年生の段階でしっかりと答えられるようにすることが必ずしも必要なことだとは考えてはいません。学習内容的に「ひとしい」が意味を持つようになってくるのは抽象的な内容が飛躍的に増える4年生ごろであり、発達段階的にも算数の世界で使う言葉としてその意味を理解できる年頃だとも言えます。
4年生で正答率が95%を超えたのは、偶然「たつじんテスト」をする前に習ったからではなく、4年生になると教員が意識的に「ひとしい」という言葉について指導するからです。授業の中で、子どもが「同じ」という言葉を使おうとしたとき、算数では「同じ」ではなく「ひとしい」を使うように促すのも4年生です。似ているけれども異なる意味の言葉として子どもが理解できる年齢になるからです。
子どもたちのできなさを明らかにしていく第Ⅱ部では、様々な問題例を出しながら児童のつまずきについて解明していきます。確かにそういう間違いをしそう…と思うものも多く、概念的な理解が必要だということを再確認する機会になりました。
算数を教えるときに「暗記させればいい」なんて思っている教員はほとんどいないと思います。ただ、子ども一人ひとりをその特性や個性に合わせて根本的な理解に導くだけの時間と人手が足りないというのが現状なのです。本来、学ぶ力を持っているはずの子どもたちが学力が喪失してしまっているのは学校のせいなのでしょうか?
「たつじんテスト」の必要性
もう1つ、この本を読んで疑問に思ったことがあります。それは、「たつじんテスト」が本当に必要なのだろうかということです。
もちろん研究をするためには必要なのでしょうけど、広く実施していくべきかということには慎重になったほうがよいと感じます。
もう現場としてはこれ以上データを集める仕事は増やしてほしくありません。ICTを使えばすぐにできて手間もかからないと思われがちですが、そんなことはないのです。ICTを使っていようが何であろうが、全員にテストさせるのは本当に大変なことです。
私は、「たつじんテスト」は、現在多くの学校が使用している業者ワークテストでも代替可能であると感じます。業者のワークテストも最近は、様々な種類があり、思考力を見るテストを選択し追加注文すれば、やや難しい発展問題なども行うことができます。(実際に採用している学校もあります。)
学習した直後に行うワークテストは、習ったばかりなので解き方の暗記で対応することができてしまいますが、本当の意味での数学的な理解ができているかというのを測れているかは疑問です。例えば「くり上がりのあるたし算」の単元では、文章題でたし算しか出てこないので子どもたちは機械的に「文章題に出てきた数字を順に足せばいい」と理解してしまいます。結果として、文章を読まずに出てきた数字を足すだけになるということが身に付いてしまっている子がいます。
そこで、必要になるのは「たつじんテスト」ではありません。前述の例などは、「たつじんテスト」をやらなくとも教員なら誰しも問題意識をもっている課題なのです。大事なのは、学習した単元と他の単元とを結びつけて考えるような問題や、実践的に考えるような問題などに取り組む時間を取ること。「たつじんテスト」で測っているような子どもの数学的思考の熟達度合いを個々に見取る目線をもつことで、授業改善は十分可能となると私は考えます。本書の知見を参考にして、子どもの本当の意味での理解度を探ろうとする取り組みを促進していくことはとても大切だと感じました。
大事なのは点を取らせるためのトレーニングをさせることではなく、概念理解につながる教え方をすることです。「たつじんテスト」も全国学力調査も数値で子どもの理解度を測ろうとする点は同じです。自治体などで一斉に同一のテストを導入し、その結果を比較する体制を取ることで点取り競争が始まります。現場の教員や研究者にその意思が無くても点を取らせることを目的にしてしまう人が必ず出てきます。そして、「たつじんテスト」を攻略するスキルを教えるようになる…それでは本末転倒ですよね。そういうことが起きないようにしたいものです。
(本書では「たつじんテスト」を広めるべきだとの主張はしていません。ただ、この本を読んで「たつじんテスト」をしなければ分からないと考える人もいると感じたので、このように記述しました。)
記号接地には横断的学習が必要
2学期に概数の学習をしたとき、ちょうど総合的な学習の時間で「自分達でデザインしたエコバッグを販売する」という活動を行いました。算数の授業で例として出した「エコバッグが何枚くらい売れるか」という話がとても分かりやすかったようで、概数の必要性や実際の使われ方がイメージできたようです。
算数の内容を理解していくには、小学校段階では特にこうした体験的な学習は有効であると感じます。本書の中でも、A小学校での取り組みとして1年生の生活科の学習が紹介されています。(p.240)
当然のことながら、これをやれば計算力がしっかりと身に付くなどという類のものではありません。ただ、とても重要な経験であることは間違いないでしょう。コスパ・タイパを重視した効率的な学習活動とは対極にあるような時間の使い方になります。このような時間をどのように捻出し位置付けるか、教育の在り方が問われている気がします。
その後のページには、プレイフルラーニングの例として幾つかのゲームが紹介されていました。実際、ゲーム的な要素を取り入れた活動は算数の授業でよく行いますが、子どもたちが、どのようなモチベーションや理解度でゲームに参加しているのかということがとても重要だと感じます。当然ながらゲーム性があれば意欲的に取り組むほど単純ではありません。また、算数で大きくつまずいている子は、もっと根本的なところで困っているので、ゲームで遊べる範囲の能力にまで到達していません。多様な児童が混在する中で行う難しさもあります。このようなゲームを身体化するほどまでくり返すことが可能なのかどうかというのは疑問です。
直観的に数を操れるように
ここまで、批判的に『学力喪失ー認知科学による回復への道筋』という本について書いてきました。読み終えたとき、タイトルを含めてモヤモヤする気持ちは消えませんでした。でも、本の内容について納得できる部分もあり、ずっと気になったまま2学期が過ぎていきました。(このnoteの下書きは実は2学期に書いて放置してあったものです。)
その後、『AIにはない「思考力」の身につけ方』(今井むつみ,2024,ちくまQブックス)を読み、人間にしかない「直観」が大切だとの記述に共感しました。繰り返し学ぶことで、感覚が身体に染みついていき、いつでも使える状態になる。そうすることで、知識を使って新しいものを創造できる。これと似たことが『学びとは何か』(今井むつみ,2016,岩波書店)でも触れられていて、何年も前にこの本を読んだとき、私はとても感化されました。
学校を直観が磨かれるような学びの場にしたい。そのためには、たくさんの指導内容が並べられた学習指導要領を、教科書に出てくる順番にきれいに消化していくような学びの在り方自体を問い直す必要があるのではないでしょうか?
筆者は、学習指導要領の見直しの必要性について以下のように述べています。私はこの部分について大いに賛同します。
学校に余白を
自分のクラスにとても算数が苦手な子がいます。算数においては、実際の学年より2学年くらい下の学力だと思います。この本を読んで、この子との関わり方が変わりました。
他の子たちと全く異なる宿題にすることを決め、毎日宿題に出るのと同じ形式の問題を給食準備中に一緒に解くことを繰り返しました。すると、宿題を忘れなくなりました。この子と毎日向き合うことで、つまずきがよく分かり、必要な支援も見えてきました。
その他にも、授業準備中や授業の最中に「子どもが概念を理解しているか」という点について注意を払うようになりました。ちょっとした変化なのですが、説明の仕方、例の出し方、図示の仕方などをより意識的に選択しながら行うようになりました。
直観的に数を使いこなすというところまでもっていくのは学校教育の限界を感じますが、子ども一人一人が何かに夢中になるものをもっていることが大切なのだと思います。そのためには、今のようにギチギチに詰め込まれたカリキュラムではいけません。何かに夢中になるためには、自分なりに思考錯誤する余白が必要です。
新学習指導要領の議論が進んでいます。その中で「授業時間を45分から40分にして、生み出された時間を柔軟に活用する」ということが検討されています。その生み出された時間にまた何かを詰め込まれることを考えると、息苦しくて仕方がありません。議論している人たちはきっと、そんな悪意はないのでしょう。この本に出てきたような教科横断的な学習をそこに入れたり、算数ゲームを行ったりすればよいと考えているのだと思います。しかし、めいっぱいに膨れ上がった学校という場にもはやその余地はありません。教員は減り、不登校は増え続けるでしょう。
そうならないために必要なのは追加することではなく減らすことです。減らすことで、じっくり取り組んだり考えたりできるのです。肥大化した学習指導要領をどう収拾するのかというのは難しい問題でしょうけれど、そこは「あれも大事、これも大事」と入れ込んできたことを反省し、しっかりと検討してほしいものです。
一方、私たち教員にもできることはあると思います。それは、本書で書かれているように点数を取らせて満足しているのではなく、子どもたちが本質的に学べているのかどうかについて感覚を研ぎ澄ませながら捉えることです。それこそが教師の専門性とも言えます。
また、時間をやりくりすることも大事です。教員が子どもたちに何を課すのか、取捨選択することで余白を生み出すことができます。学習指導要領はもちろん内容を精選する必要がありますが、どのように授業するかは教員に委ねられているのですから、その意味をしっかりと考えて授業研究していくことが大切だと感じています。
この本の終章の中で印象深いのが以下の記述です。
はじめ、学校のせいにしているのでは?と思ったのですが、テストの点数を上げることばかりを重視する社会の問題点も示唆している文章だと思い直しました。
本書で学んだことを念頭に置きつつ、新しい学習指導要領の議論を見守っていきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。