【切手】前島密 普通一円切手
印刷されないようにご注意ください。
いつも目にする切手。
切手一枚から知り得るものを調べたり、味わったりしてみたいとおもい、一円切手について調べた。
一円切手は郵便の父「前島密」がモチーフとなっている。
切手は自然をモチーフにしたものにデザインが刷新されたが、歴史的な美術、遺産があった時代のときも含め人物が普通切手のモチーフになったのは、あとにも先にも前島密のみであるとのこと。
この人あっての郵便だからというだけではなく、年表を見る限りの功績がもの凄くて驚いた。え、どういうこと?と。
最初から恵まれていた人、というわけではなく、苦学生である。
自分が苦学してきたこともあり、苦学生や教育に関しての成果も大きい。
すべての分野において一体この人どうなっちゃってるの!?というくらいの成果をあげている。
関連分野ではあるが、分野が多岐に渡りすぎててぶっ飛んだ偉人だ。
図書室の伝記を結構読んだ子供時代だったと思うが、本棚にいただろうか?
これは…ちょっと伝記か小説を読みたくなる。
生まれてまだ一歳になるまえに父親は亡くなり、母が一人で育てている。しかし、女手ひとつで子育てしながらなので、生活は貧しい。
母方のふるさとに戻ったり、親戚の家に居候したりしながら生活した。
世話になったのは叔父にあたる人で、医師。
なので、7歳から医学を学び、塾に通い、医師の学僕となり、銀林玄類、竹島俊司、倉石典太、上坂良庵、添田玄斎、長岡全庵と多くの人から学ぶ。
しかし14歳で叔父がなくなってしまう。
政治兵法の本を筆耕し学ぶなか、18歳の頃ペリー黒船来航という、日本に激震の走る出来事が起きた。
筆耕、本を写して文字を学ぶなかで、世情も学んでおり、接見役の井戸石見守の従者となり浦賀港に赴く。
人生の前半にはとにもかくにも先生となる人が沢山居る。そして勤勉である。
教育はねばならないものではないと言うことと、実際に自分がやりたいことの可能性を広げたり、その分野に刺さり込むために小手先ではない知識を有するというのは、大事なことだ。
それを人生の前半でスタートできているというのがすごい。幸運、だけではなく非常に努力をしていたのだろう。
20代からは「船乗り」人生が始まる。
数学、砲術、兵法を学び、オランダ製の船に乗り、測量をしたり、機関士として学んだり、航海術も身に付けている。
医師からは遠退いたが、医学の心得があれば船に居ても少し役に立っていたのでは?などとも思う。
船乗りになった房太郎は、巻退蔵と名乗る。
そして23歳で北海道函館に赴く。このとき、航海術を教わった人こそ、後に函館五稜郭を設計した武田斐三郎だ。乗った観光丸は、勝海舟が乗った咸臨丸と同時期に作られた船である。
函館では函館丸にのり、航海実習で日本を周回し、測量を行う。
機関士、航海士、測量士…専門家を極めているジェネラリストという感じだ。
八雲丸、黒竜丸、明光丸、様々な船に乗り、外交をするなかで英語なども学んだ。
30代は「教育者」としての色が濃い。
30歳で鹿児島開成学校で英語を教える。
しかし、兄が亡くなり江戸へ。
前島錠次郎の養子となり、名を前島来輔と改め、清水与一郎の娘仲子と結婚する。
開成所数学教授になる。
江戸に来てからは徳川慶喜に
「漢字御廃止之義」と「領地削減之義」を提出している。
識字率が低く、言葉を書けない子供が多いのは、漢字が難しすぎるためではないだろうかと、子供たちを教えていて思ったためである。
一理あるが、平仮名だらけにならなくて良かった…とも思う。
33歳で奉行支配役、翻訳方兼務。大久保利通に江戸に都を移すべき!と進言したのも前島であり、彼のいない世界線では東京は日本の首都になっていなかったかもしれない。
駿河の奉行になったりとお奉行様になりつつ、
名前を密に変えた。
そして鉄道の建設事業に乗り出す(…!!)
鉄道をつくり、東海道の駅を利用し、手紙をスピーディーに運べる「郵便制度」を立案。
早馬を飛ばすわけでも、飛脚でもはとでもなく、「郵便」で、送れるようになったのは前島氏の功績だ。
次は新聞。郵便報知新聞の創刊に関与。
そして陸運。日本通運の前身となる会社の設立を助ける。
30代からではあるが40代は「政治と福祉教育」に関わっている。40代にして集大成のようにバリバリと結果を出している。すごい。
まずは郵便為替、郵便貯金について。
金融事業だ。
そして訓盲院、つまり盲学校の設立。
西南戦争により大久保利通の代わりに内務省、川路大警視に代わり警察重要事務監視までやっていて、もうここまで来ると何がなんだか判らない。
ここからなんか色々なりすぎてワケわからないので割愛。
日本海員掖済会発足に尽力。船員時代が長く船員の福祉、医療を充実し支援した。
そして、東京専門学校(早稲田大学の前身)設立を助け、2代目校長に。
逓信、電気学会、NTTの研修センタの前身となるもの、鉄道会社、国字改良、盲唖学校、貴族院議員などの設立したり、トップとなったりで
84歳に亡くなるまで、本当に何の人なのか判らないほどの功績を挙げてこの世を去った。
目まぐるしくて訳の判らない素晴らしい人生だ。
伝記ではなくて私は年表を読んだのだが、お腹いっぱい胸いっぱい頭いっぱいだ。
一円切手を見るたびに「何かすごい」を思い出すこととなるだろう。
一円切手を学ぶだけで勇気をもらえて、学ぶことの大切さを教わった。偉人は偉人であるだけで後の世の人まで勇気づけるのだ。
すごい。
歴史でもっと優先して習った人たちには、才に溺れ結構自堕落な人達もいた。何故前島さんより優先して覚えたのか…
やりたいなあではなく、やるのだと行動し、思いと現実を一致させるというすごみは、時代が違うからというだけでは片付かない。
一円切手に足を向けて寝られないほどの人で、とても驚いたとともに、
やはり切手は深いことを、再度認識したのだった。
さあ、切手沼へようこそ。