〈ほんとうのこと〉
ここ最近思いきり不摂生な生活を送っていて夜は長いので何か書くことにした。この文章は誰のために書かれてもいないし〈あなた〉のために書かれている。ここでは独りよがりな妄想が語られているし〈ほんとうのこと〉が試みられている。
"本音と建前"のことをよく考える。ぼくは人一倍その場の空気を読むし気を遣って大袈裟なリアクションもとるし本当は傷ついているのに平気な振りもする。ぼくはそれを、自分の身を削り嘘をつくことでその場をやり過ごしているというよりかは、「自分が他人からどう思われているか」や「自分が他人をどう楽しませることができるか」も全部自分の幸せの尺度にひっくるめた上で自分のやりたいようにやるという身勝手さにおいて、真摯な態度であると思っていた。
「真摯な態度」というのは半分あっていて、半分間違っている。
詩人から出発し、60年代〜70年代の戦後思想に影響を与えた思想家、吉本隆明の詩を読んだ。吉本の詩で有名な一節がある。
吉本は自身の詩論の中で、詩とは何かを語っている。これはほとんどそのまま、この詩の一節の解説になり得る。
吉本は「現実の社会」と言うことで何を伝えようとしているのか。吉本の生きた社会の空気と60年を経た今の社会の空気は明らかに違えど、「個」と「社会」という図式で社会をとらえた時に感じる圧迫感は今も変わらない。
資本主義や国家や同調圧力をはじめとしたあらゆる幻想に従うことをぼくらは常に強要されている。情報が加速度的に溢れ、選択肢も目的も発散していく。にもかかわらずぼくたちは今日も適度な運動をし、サウナやキャンプに向かい、洒落た生活をSNSにあげ続ける。監視し、監視されることは「気持ちの良い」ことだ。
とにかく何でもいいから何かをしなければならない。動き続けろ!
健康的で生産的な「すてきな生活」から逃げ続ける姿勢を詩人的な感性と呼ぶなら、詩人の目指す自由には逆説的に入れ物が必要であると思う。それは定型でも、密室でもいい。薬物にハマる人も、ほんとうは自由になりたかったはずだ。そこに自分の体を押し込むと、予想だにしなかったことが起きる。
*
吉本隆明は「密室での孤独な作業」に生きる条件や詩の核のようなものを見出しているように思える。そしてそれは必ずしも内向きのベクトルだけを意味しない。
この間までぼくは、この世には言葉では言い表せないものが大半だと信じていたし、それはぼくの「自分と他人とは深いレベルでは分かり合えないものだ」という深い諦念にも通じていたように思える。そうしてぼくは「真摯な態度とは何か」という問いにまた向き合うことになる。ぼくが諦めていたのは、他人というより自分自身だったと思う。
〈ほんとうのこと〉を言いたい。そのために何かを書きたい。というのがこの文章の結論である。独りよがりな自己満足と全世界を凍らせようとする営みは結局同じことなのかもしれない。
これは詩である
吉本の詩論からもう一節
〈あなた〉が「海に行きたい」と声をあげるとき、世界は開かれ、次の瞬間にはぼくはそれをもう覚えていない。
好きな歌を2曲引用して終わります。
「海とピンク」では終始抽象的な歌詞の中で急に立ち上がる指示的な〈海〉が、「季節の果物」では情景的な歌詞に浮き上がる詩的な〈海〉が、〈ほんとうのこと〉に限りなく接近しているようにぼくには見える。ぼくが見ているのは〈海〉で、ぼくがなりたくないのは〈海〉である。
この冬に海に行きたいな〜
おわり。
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