かみさまのいるまち 覚書
ぼくは、あなたに言葉を発する。言葉はあなたに届く前にばらばらになり、その一部があなたに届く。
ぼくたちは、トンネルを自転車で通り抜ける。そこでは無機質な音と光だけが許される。ぼくたちはトンネルの中で声を発することができず、自転車の鐘を鳴らす。甲高い音は反響し、ぼくたちの居場所はほとんど分からなくなる。
海には砂浜がない。そこには砂の代わりに岩が続き、そこで波はぼくたちの知らない音を立てている。ぼくたちはこの場所も海と呼ぶことを、事前に約束し合う。
小さな島には貝殻の破片でできた黄色い砂浜がある。自転車が倒れ、ハンドルとペダルが、貝殻の擦れ合うかすかな一瞬の音を立てて砂浜に埋まる。小雨が自転車の、サドルの裏側に当たっている。
丘には馬が住んでいる。馬は丘の芝を悲しい音を立てながら食べ続け、ほとんど走らないまま一生を終える。丘から遠く下、灰色の海が見える。遠くの山では、風力発電の羽が回る。
大きな池に、小さな祠が立っている。色の落ちた赤と深緑の紙垂を下げ、祠は苔に覆われている。祠の周りを、蝶鮫がゆっくりと水底を這っている。祠を最後に人間が触れてからの、月日。
乗客は2両編成の電車に乗る。電車は線路の上を、乾いた音を車内に響かせながら進む。車内は寝静まり、枝が窓を引っ掻いている。車掌は一言ずつ至極丁寧に、駅の名前をアナウンスする。
ぼくたちは野を想像する。不自然なほど、彩り豊かな野の花が咲いている。靄がかかっているが、そこは日向になっている。生温かい、無味無臭で、完璧な野。
ぼくたちは、神さまを信じる。流れ出す溶岩や鋭い滝、冷たい洞窟を見、ぼくたちは語り、祈り、踊る。そうしてぼくたちは、先代の風景を追体験しようとする。そのたびにぼくたちの中で風景は変わり、風景はぼくたちだけのものになっていく。それでも風景にある、風景の音楽だけは残り続ける。
ぼくがあなたに言葉を発する。言葉はあなたに届く前にばらばらになり、その一部があなたに届く。ぼくが放った言葉のうち、ばらばらになりこぼれ落ちた部分はあなたが補完してくれる。
あなたは言葉を受け取る。あなたが受け取る言葉はいつでも足りず、あなたはあなた自身で言葉を補完する。あなたはいつでもあなたのかたちを持っている。言葉の補完の過程であなたのかたちは、ほんの少し、変わる。
風景はあなたに光を放つ。光はあなたのからだを満たす。あなたのかたちは日々変わっていて、あなたを満たす風景の光は、いつでも少しずつ異なっている。
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旅行に行ったら、たまたまそこは神話の舞台となった町でした。
神さまを信じ、神話を継承していくことには、「縛られる」ではなく「赦される」という感覚がより正しく当てはまると思います。
あらゆる創作物、芸術や映画、小説や詩、会話でさえも、リズムを持っています。そしてそれを身体化することでわれわれは作者の見る景色を追体験しようとしている。それは神話についてもきっと当てはまります。
では、どうやって我々は作品を身体化するのか、
一つは、その定義を理解すること、だと思います。芸術であれば、なにか美しいものや奇抜なものを作る。映画であれば動画を撮り繋げて物語にする。小説であれば言葉を繋いで物語にする。のような大枠の定義の部分。
二つ目は、それぞれの作品の、ノリが分かること。たとえば作者特有のクセや考え方、それは、その作者あるいは作者の世界特有の"ルール"だとも言えます。ぼくらはそのルールがなんとなく理解できて初めて、その中で自由に動き回ることができる。
ぼくたちは、ルール(縛り)を設けられないと身動きが取れない。
死者を偲ぶことは、死んでしまったその他者を、他者そのものとして受け入れるのではなく、"自分にとってのその人像"へとその他者を作り変えた上で受け入れることに他ならない、みたいなことを誰かが言ってました。
どれだけ身体化できても取りこぼしてしまうことがある。それは残酷なことであり、でもそこにこそぼくたちの旨みがあると思います。それは絶対に達成できない営みであり、達成できない、というルールによって、ぼくらは赦されている。
ぼくには一つの絶対的な何かを信じることはできない、そんな勇気はない気がします。いろんなものに頼りたい、この文章にも、赦されたい。
聴いていた音楽
https://spotify.link/TyALXsRamJb
参考にした本
センスの哲学 千葉雅也
吉川宏志歌集 現代短歌文庫
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