生きづらくて、パーフェクト
週末、ヴィムヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』をみた。
この映画がぼくらの心を掴む理由は、どこにでもあるような日常を、平山(主人公であり、公衆トイレの清掃員)がどのような仕草と表情で受け止めるか、という点。そしてそれを映画で表現することが持つメッセージ性にある。
①日常を、享受する。
平山は、自分が幸せを感じれることが何かを、自分で分かっている。それは古本屋で1冊ずつ購入し、就寝前に読む本であり、それは起床後の、部屋の苗たちへの霧吹きであり、それは開店と同時に入る銭湯で浸かる湯船であり、それは通勤中に車の中で再生するカセットテープの音楽であり、しみひとつなく清潔にした公衆トイレであり、仕事帰りに立ち寄る居酒屋であり、週末にスナックで飲む酒であり、神社の境内から上を見上げて撮る木漏れ日である。平山は毎日をルーティーンに落とし込み、その流れを幸せそうに享受している。彼は微笑を浮かべながら空を見上げ、木漏れ日と風に靡く葉が擦れ合う音と文字とが混在した幻想的な夢を見、スカイツリーを横目に清々しく自転車を漕ぐ。
彼は、周りに起こる物事を、コントロールできているように見える。
②こんなふうに、生きていけたなら?
丁寧なくらし。最低限の賃金を稼いで、少ないモノを所有し、植物を愛で、屋外で日光浴をし、近くにいる親しい人と、かけがえのない時間を過ごす。毎朝8時の新宿駅のむせかえるような雑踏や、満員電車、ブラインドタッチの音と乾いたエアコンの匂いの混じる部屋とは無縁な世界で、心の安寧を保ちつつ暮らす。
ミニマルで質素で、ルーティーンに落とし込まれた効率的な生活が、現代の資本主義・大量消費社会に対抗しうる一つのロールモデルとして台頭している。禁欲的・仏教的で、禅のイメージを彷彿とさせる一方、その生き方はどこか野心的で、クールだ。
平山は自分から"あえて"降りている。自分の幸せのために、意図的にこの生き方を選んでいると、映画を見て思った。
「映画製作」のために、トイレ清掃員のリアルな実情に蓋をして、平山という人物を過剰に、かつ恣意的に美化している。そんな批判は一旦置いておく。平山という人物が現実的かどうかというよりも、トイレの清掃員の男性1人の、幸福感に満ちた生き方を映画で提示してみせたこと自体に、大きな意味がある。
一方、そんなライフスタイルが、ある意味ファッションとして商業的に消費され始めているということに、ぼくはふと怖くなる。「こんなふうに 生きていけたなら」このキャッチコピーへの共感は、現実に抱く不満の裏返しである。みんな疲れて、我慢ならない。ミニマリズムが、コミュニズムが、崇拝される。
"素敵"と思われているから。ポジショニングとしてそんな暮らしに憧れ、生きる人たちは、自分が満たされないことにふと気づく。
完璧な毎日(パーフェクトデイズ)を生きるとは?
③他の人の感想、2選
他の方の感想、紹介します。
平山は、自分の幼さや不甲斐なさに蓋をし、閉鎖的で自己満足な自分だけの世界へと現実逃避することで変わらない幸せを作り上げようとしている。そして彼の世界は、彼が変わろうとしないその姿勢によって自壊を見せ始める。(映画の後半に、少々波乱が起きるので。)
心の奥底では変化を求める一方で、自分だけの世界に固執する余り何も変えることができない。この映画は、そんな矛盾に苛まれた人物を描いたものだとする批評です。劇中曲も細かく分析していて、深くて面白いです。
牧歌的で質素、単調でささやかな生活こそが"パーフェクトデイズ"であると主張することで、現代社会に対抗しうる新たなライフスタイルを啓蒙する(鑑賞者に問う)映画だと見せかけて、実は独りよがりで自己中心的な自分自身の未熟さに苛まれる1人の男の葛藤を描いた映画なのかもしれない。
もう一つ
ASD(=自閉スペクトラム症: 症状の一つとして、特定の習慣に強いこだわりを持つこと、変化に対する抵抗感を持つこと、対人のコミニュケーションの不得手、などがあげられる。)を持つ方の視点から、平山という人物を分析したもので、映画の見方が変わります。
平山のように生きることは、世間一般的な生き方からのドロップアウトでは決してない。この映画で提示される生き方は、現代社会において、他人と同じように生きることに難しさを抱える者たちの地位の復権、という意味合いをも含む。
④生きづらくて、パーフェクト
この映画は一口に言えば、平山というトイレ清掃員のささやかでかけがえのない日常を描いたヒューマンドラマであり、さらに本質的に言えば、そんな平山の生きづらさを克明に描いた映画である。ぼくらは平山が(苦しみながらも)前を向こうとすることに、そしてそれこそが人生であることにいい加減気付く必要がある。
一瞬として同じことはなくて、生きづらくて、パーフェクトな日々。