太陽の子YOHKO⑦ 不自然な果実たち
子供のころ、大人は神様であり大人の言うことは絶対だった。
だけど、小学6年生の時から、大人の言うことは絶対どころか欠点だらけで共感できない事が多いのに、それでも大人の「絶対」に振り回される。
私は身長が低く、前から1,2番目だった。
なので、生理のはじまりは、中学2年の秋だった。そこからの思春期。
いちはやく思春期に入り、そこから脱出したクラスメートとも合わない。高2の前半までその状態が続く。
授業のわかりずらい教師をバカにし、宿題なんてやってられん!!
当然赤点。お前が悪いんだよ!!高1の担任の数学教師。
親は母が短大、父が私立大学でそれぞれ東京に行って、卒業後戻ってきて、お見合いで出会っているのだが、だからこそ「YOHKOは富山大学以外の国立を考えているけど東京の私立でいいと思う。」(家を出たいのは嫌というほど両親はわかっていたから)。
まあ東京には親戚もいたから。で結局学校から親が呼び出しだの、家庭訪問など表向きは一生懸命やっているが、何かズレた20代後半の数学教師。
「もう、学校をあてにしない。私もある程度見捨てられる」という折り合いをつけ、当時旺文社の大学受験ラジオ講座という、地方学生にとってはありがたい有名大学教授や予備校教師のテキストと、リアルタイムや録音でその講座の番組を聴き、高2の春休み、高3の夏休み・冬休みに東京での講習を合宿で行った。
すると全国の友達ができた。
こんな田舎の港町では無理だが、新しいYOHKOになれるのではという感じもした。
学校に友達がいなくても平気なのか?
学校外でのサークルっぽいところで、大学や専門学校、就職したり、他の高校生との男の子と話したり、ボーリング行ったりした。
学校では固まっているくせに(・ω・)
詳しくはまた別の機会に話そうと思う。
高2以降、ダメんず数学教師の担任にはならず。マイペースで塾やラジオ講座をやっていたら、高3の英語担任に英語に関しては基本的以上の力があるから、関西の外国語の推薦どうよとも言ってもらえった。
でも若かったのだろう。
内申書がないうれしさに、私大を一般で受け一浪するも、まずは2次募集で短大に入学し、その後同じキャンパス内の大学3年次編入するまで、本当に人の何倍の時間がかっかた。
いくら洋楽や洋画を見て、そこそこ英語に好奇心があるものの、高3の担任に「もっと丁寧に徹底的にやれ」と言われ、それがやれていないので単語の暗記、文法、長文で受験は英語が嫌いになりかけた。
でも短大は経営学部、大学は商学部だけど国際コースを選んだので、英会話や英字新聞を読む講義もあり、おかげさまで英語は優 良 可 不可の優だった。
その裏では何度もおなじ間違いや困難で泣いた結果だけど、これは中学の時から変わらない。
母も担任も通訳とか英文科でもいいじゃないとも言われたのだが、やっぱ就職の事考えて、法,社会、商学部の学科を選んだんだよなー。
もしかして男アサリのため?
いやいや違うだろう!!
進路決め、やりたいことが多少不自然でも本当にその人にとって選んでよかったという選択大学に最終的に行けてよかった。
短大の卒業式は父母、大学の卒業式は母のみが来たのだが、父曰く「お前はあの大学でY先生とT先生に出会って助かったところがある」と今でもシミジミ言われる。
だがY先生をはじめとする教授の何人かはもうこの世にいない。
いないから、天国で再会するまで、私が尊敬する人たちの事をどんなに情報が氾濫していても、自分のペースで伝えていきたい。
それはパフォーマンスなのか、文章なのか、なにかトンデモナイ作品かはわかんないけど。
50歳になったら、やっぱ私は言うんだよ!!
「ちかごろの若者やこどもは終わっている」ってね。
くやしかったらYOHKO様にかかてこいや!!!
※最後に唐突な煽りが入りましたね...