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【小5想像力のスイッチを入れよう】ニュースを見たらフェイクだと思え
「人を見たら泥棒と思え」ということわざがある。
簡単に人を信用するなという戒めだが、日本は(仏教は?)性悪説だなあと思う。
たまの帰省で子どもたちが喜ぶのが駅の改札だ。
切符を見せたり、自動改札に入れるのが面白いのだそう。
そう、面白いと思うということは、ドイツにはないということだ。
改札はないので、切符がなくてもホームまでずんずん入っていける。
もちろんそのまま電車にだって乗れるが、それはSchwarzfahrt(黒い乗車)と呼ばれ、たまーに回ってくる検札に見つかれば60ユーロの罰金だ。
今の為替でいうと、1万円以上になるか。
もう日本に本帰国した強者の友人は、毎回切符を買うのと、検札に罰金を払うのと同じくらいの値段だと言って、面倒がって切符を買わなかった。
しかし、先日長女が政治経済(日本でいう公民?)の授業の一環で裁判の傍聴に行ったとき、度重なる無賃乗車で捕まった人がいたので、もちろんやらない方がいい!
しかし、改札がないのは、もちろん人件費も削減できるが(大きな駅以外、普通は無人駅)、そもそも性善説に基づいていると思う。
実際には仏教は性善説、キリスト教は性悪説なんだけど、やっていることは真逆だ。
なかなかに面白い。
似たようなことわざには、「明日は雨他人は泥棒」、「人は盗人 火は焼亡」、「人を見たら鬼と思え」、「火を見たら火事と思え」、「道と思えば穴と思え」「寺の隣に鬼が棲む」などがあるそうだ。
英語でも同じ意味になることわざに「Man is a wolf to man」(人は人にとって、狼だ)というのがあった。
どうやらラテン語の「homo homini lupus」に由来しているらしい。
さしずめ日本語の故事のようなものか。
出典の喜劇「アシナリア」は紀元前2世紀ごろの作品だそうだから、昔から人は信用ならないものだったんだろう。
一方、反対の意味のことわざは「七度尋ねて人を疑え」、「渡る世間に鬼はない」。
「ななたび」で何度もという意味になり、物を紛失しても、まずは何度も自分でよく探してみてから、初めて人を疑えということらしい。
それにしても、信じることわざよりも不信のことわざの方が多いのだから、やはり教訓としては「信じるな!」が強かったのだろう。
さて、昨日5年生の国語教科書(光村図書)「想像力のスイッチを入れよう」を勉強した。
メディアの情報と触れるときには、「まだ分からないよね」「事実かな、印象かな」「他の見方もないかな」「何がかくれているかな」という4つのスイッチを入れながら対応せよという話だ。
<ご本人による解説動画>
具体的な例が挙げられているので、とても分かりやすい。
妄信せずに、視点を変えて考えようという教えは、この単元を初めて教えた、かれこれ7年前にも大切だと思った。
しかし、それからの月日はITをさらに進め、真偽が分からないほど精巧な合成動画や画像を作り出し、SNSの拡散速度も一層早めた。
今や「ニュースを見たら、フェイクだと思え」、「噂を聞いたらデマだと思え」と言っても過言でもない。
国語教科書では、この後(中学校含め)もデータ元の信ぴょう性についてなどの単元が出てくるが、現代の子どもたちにはもっと以前から、このような教育が必要なのではないかと思う。
残念ながら、今の世の中は性悪説でいた方が無難に過ごせそうだ。
「電話がかかってきたら、オレオレ詐欺だと思え」
「お札を見たら、偽札だと思え」
「プレゼントをもらったら、下心があると思え」
また、人に関わらず、
「餅を食べたら、咽喉につまると思え」
「夏になったら、熱中症になると思え」
などの注意喚起も含めて、いろいろな新しいことわざを作ってもいいかもしれない。
(今度、継承語高校生クラスでやろっと♪)