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ことたまルポ✏️空海が「十住心論」を書いた祠は1200年の時を超えて今も信仰の火を灯し続けていた!


 前回の記事において、ことたまを語る上で欠かすことのできない超重要人物、弘法大師・空海が登場しました。
「いろはうた」は生命誕生の原理を伝えていた!人生が変わる!太古から人類に伝わる言霊の法則
 
 さて。今回は、ちょっと趣向を変えて「ことたまルポ」と称しまして、そんな空海にまつわるミニエピソードをお送りします✨ 

 筆者は京都在住なのですが、つい先日、四条河原町という京都一の繁華街を歩いていた時、吸い寄せられるようにしてある寺院へと足を踏み入れました。
 
 それは「染殿院」というお寺。こぢんまりとした“お堂“と言ったほうが良いのかも。安産のお守りを授与していることで全国的にも知られています。

創業明治7年の「林万昌堂」さんの店内を経由し、
甘い甘栗の香りを嗅ぎながら奥に進むとお堂専用の入り口が。

 午前中だというのに、なんだか異世界に迷い込んでしまったかのよう。
 
 なにげなく、沿革の書かれた看板を見ると、なんと「空海がここで『十住心論』を書いた」とあるではないですか。ちょうど仲間と共に「十住心論」について学んでいるところだったので、なおさらびっくりです。

皆さんは「十住心論」をご存知ですか?

 空海が仏教の教えを体系化し、人間の精神的成長を 10段階(十住心) に分類した書物です。それぞれの段階が「住心(じゅうしん)」と呼ばれ、仏道の進化のプロセスを表しています。その要点としては、

  • 人間の心は成長するものであり、段階を追ってより深い悟りに至る。

  • さまざまな仏教の流派や思想は、それぞれ異なる段階の人々に適した教えである。

  • 究極の目標は「即身成仏」(生きながら仏になる) こと。

十住心論の10段階。空海は、人間の心の発展を 最低の状態(1住心)から最高の悟り(10住心)まで 段階的に整理しました。

 さて、自分はどのあたりだろう、と思ってみたり。。。
 いや、深く考えないでおこう😆

空海が「十住心論」を書いた時代のよすがを求めて…

 奥に居られた管理人さんが出てきてくださり、空海が居た当時の、このあたりの様子を教えていただきました。ここからは、そのお話の一部をお届けしようと思います。

 このお堂は、正確に言うと、

 唐から帰った空海が「十住心論」を清書した場所
 
 なのだそうです。かつては「十住心院」とも呼ばれていました。

(以下のコメントは実際には京都の言葉でお話しされていましたが、そこはイメージで補ってください😄)

「染殿院は、資料によっては、“空海が開基“となっているけれど、実は空海が来る随分前からあったようなんですよ。平安京ができてしばらくの頃です。この辺りは、今でこそ大繁華街だけど、当時都の中心があった場所よりもだいぶ東で、もちろんこんな四条通りみたいな大きな道も通っていません。そもそも“新京極”の“京極”という地名が「境界」を意味しているように、あちらの世界(辺境)とこちらの世界(都)の境目の場所だったんです」

 はい、新京極というのは、この染殿院のもう一つの入り口が面している、京都で最も大きなアーケード付きの商店街のことです。

「その境界に、旅ゆく人々の安全を祈ってお地蔵さんの祠がいつしか建てられた、と。それがこの染殿院のルーツ。この時代の旅は、常に危険と隣り合わせで、いつ何に襲われてもおかしくないという状況が当たり前でした。ですから、次の町へと歩みを進める前に、お地蔵さんに旅の安全をお祈りしたり、これまでの無事を感謝しないではいられなかったんです。空海もきっと旅の途中、同じようにしてこの祠に立ち寄って、“屋根があるからここなら雨風を凌いで清書できる”と思ったんでしょうね

百貨店立ち並ぶ四条河原町が、1200年前は荒涼とした土地だったとは(※これはイメージです)

「その後、このお堂も大寺院に吸収されていき、数多ある塔頭の一つにはなっていくのですが、あくまでこのお地蔵さんの祠が先にあって、お寺の方が後なんです。寺院の宗派は、時の権力者が庇護、あるいは優遇していたものに時代時代でころころ変わっていき、結局、その大寺院も北区に移転、周辺の土地も明治期に切り売りされて、料亭や見せ物小屋、商店が立ち並ぶ繁華街となっていきました」

 なるほど。大寺院や周辺の土地は時代の荒波に翻弄されていったけれど、このお堂だけはまるでエアポケットのようにして、信仰の火を灯し続けている、ということなのですね。実際、奥の坪庭の陰影や、黒光りする柱や天井に歴史を感じないではいられないです。。。
 
いやいや、もともとのお堂は幕末の大火で焼けてしまったんで、これは160年ほど前の建物です。1200年の歴史からしたらほんの最近の姿ですよ! たとえば時代劇で、人里離れた草っ原で武士が決闘していて、その傍に祠がある、なんてシーンを見ると、“ああ、染殿院はもともとはこういうところにあったんだろうなあ“と思いますよ。以来、形を変えながらも、1200年も前からここにあり続けて、たくさんの人の祈りや感謝が集積されているのではないでしょうか

小さな境内ですが「びんずる」さんや「妙見」さんもおられます。
「妙見菩薩」と「天之御中主神」、古の神仏習合の姿そのままなのもなんだか嬉しい。

 1200年前、確かにここに空海という人がいて「十住心論」を書いたのだというリアリティを感じることができ、この難しい本が、少しだけ、自分にとって身近な存在になったように感じました。

 
時空を超えて、何かと繋がる。そんな場所が、案外、日常の延長にあったりするのがまた、京都という街のおもしろいところですね。
 
 皆さんも、お近くに行かれたらぜひお立ち寄りくださいね。

                        (記事担当:千場ひろこ
「染殿院」
京都市中京区新京極四条上ル中之町562
※拝観は原則、10〜18時で火水休


「言灵(コトタマ)の法則」は、カタカムナ学会が研究・普及に努めています。
カタカムナ学会 公式HP


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