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【短編小説】その五月の陽光のもと
息子の運動会の感想に、「君の名は」でお馴染みの「入れ替わり」というファンタジー要素を思いきって盛り込み(※男性視点で書きたい、という気持ちが先走ったもの)、ひとつ短い小説を書きおろしました。
はじめは運動会のことを普通に日記として書こうと思っていましたが、どうしても「暗い本音」や自己陶酔のような感想になっちゃう部分が嫌。
自分の気持ちと言語化したときのギャップ。
たとえば「劣等感を抱く」と書いたときに、劣等感を克服しようとは思っていないんだけど、読み手からみると、「そら、アカン!」と。
ストーリーとしては、どうにか克服していくんだろう、と、思う人も多いだろう。
自由な読み方をしていただくのが小説の妙味ですが、主要登場人物に自分を投影すると、自由な読み方に抵抗が出てきます。
なので、そのへんを鑑みて小説にしました。
カタルシスに、もう少し淡々としていながらも、読後感スッキリという雰囲気にしたかったのですが、力及ばず微妙な感じに。
ー他、創作大賞2024応募作品
※他応募などの事情で、予告なく削除することがあります。感想をもらえると小躍りして喜びます。
朝、起きてみると
「なんてことなの」
朝、鏡を見て、私は静かに驚愕のため息を漏らした。よりによってこんな日に、夫と体が入れ替わるなんて。
今日は支援学校に通う息子の運動会なのに。夫も「なんてことだ」とため息を漏らしながら、胸部や臀部を揉んでいる。
十年も一緒にいると羞恥心は沸かない。ただなんとなく、自分に比べて夫の危機感は薄いような気がした。イライラした。けれど、喧嘩をしている場合ではない。朝からやる事がたくさんある。
使いなれた自分の身体が変わる、その違和感に、いつもより早く目が覚めた。ある意味、良かった。
「あなたは洗濯機を回して」
私は昨日下拵えしておいたものを冷蔵庫から取り、弁当作りに取りかかる。身長はあまり変わらないが、妙にゴツくて動きの鈍い手は使いにくく、指の先を削いでしまった。
「痛」
リビングの時計へ目を向ける。五分のタイムロス。夫とお互いの立ち回りを決める時間は、十五分程度だろうか。焦燥感。
夫婦入れ替わり症は、最近認知されはじめた特異な性心疾患だ。
原因は、お互いがお互いを理解されていないと不満に思う慢性的なストレスという説が有力
だ。
しかし、私たちにその意識は薄い。ストレスが皆無ではないが、どちらかと言うと仲が良い方だと思う。仲の良さなど誰かと比べられるものでもないが。
前日のセックスという学説もある。どの説も、十分な根拠はない。
通常一日で治る。入れ替わりが解消されない、もしくは頻回なら、即座に受診すべし。
ある医師の「セックスが原因」という学説は、根拠はないとされつつも、ネットで煽られ世間に膾炙した。それゆえ症状を隠そうとする夫婦・カップルは多い。
ラジオをつけて聞く耳半分で家事をしていると、発達障害を理由に子供を虐待した親や、優性保護法の裁判が佳境であるニュースが流れ、暗い気分になる。
けれど、消さない。
私が本当に辛くなるのは、長期休暇などで 子供電話相談で、我が子と同い年なのにも関わらずよほどシッカリと自己表現できる子供の声を聞き、僻んでしまう時である。そういう場合、すぐにラジオを消す。
夫はどうだろうか。
「おはよう」
息子が起きて台所にやって来た。水筒に茶を容れようと、私は入れ代わりに台所を離れた。その隙に、唐揚げをつまみ食いされている。
「それ、どうせお弁当に入れるのに。せめて顔を洗いなさい」
息子は怪訝な顔をしている。
(私の体の)夫はトーストを焼いている。ハッと気付いた。(夫の体の)私がダイエットしても仕方がない。せめてバターを付けないようにと、指示する。
息子は、ただ気味が悪そうに二人を眺めていた。
いつもなら、私(の体)に包み込まれるのが好きで、私も、まだ幼くふくふくした息子を抱き締めるのが好きで、朝の挨拶は抱擁が常。だが今日はそれがない。
けれどパニックになるほどではない。そもそも息子は気付いていないように見えた。自閉症の息子は、勘が妙に冴え渡っている時があるが、他人への興味関心が薄い時間も長い。
どうしよう
「それで、どうする?」
まず決めなくてはいけないのが、この入れ替わりを周りに言うか、言わないか。概ねスケジュール管理アプリで共有はしているものの、私たち二人の予定を洗い出した。
夫はPTAで運動会の手伝い。私より早く家を出て、スタンバイする。私は観覧のみだが、保護者仲間と待ち合わせをしている。
進級したばかりで、気心知れた人だけではない。しかしその分、関係が浅い人も多い。夫婦入れ替わり症に罹患するのが初めての私たちは、内緒にするという意向が一致し、大慌てで、どうするかを話した。交通系ICカードと財布の場所、遣っていい金額の上限、その他鞄の中の持ち物。
台所で、トーストが熱くて持てないと、息子に呼ばれる。
スマートフォンはどうする?もはや、お互いを信頼するしかない。私は夫に待ち合わせで連絡を取り合うであろうトークルームを、夫は私に、PTAグループトークを示した。
それ以外のメッセージは勝手に見ないこと。電話は無視。
弁当が袋にうまく包めないと、息子に呼ばれる。
混乱の中、今日一日くらいどうにかなりそうだ、という根拠のない自信が沸いたのも束の間、私はすぐに「服!化粧!」と叫んだ。夫は、ヘアセットもしないまま、洗いざらしのリネンのシャツと足が太く見えるズボンを着て、「オッケー」などと言っている。
PTAの仕事を夫が引き受けることで、教師陣には覚えがよく、それで随分助かっている。そして、彼は時間厳守を重んじていることも知っているが、私としては「大丈夫だから早く行って」ということばを鵜呑みにして、任せるわけにはいかなかった。
時間を気にする夫を宥めて椅子に座らせ、彼(私)にメイクして、髪を整える。無難なワンピースを着せて(化粧で服が汚れないように)、今日履く靴を出しておく。
「なんか面倒くさいね」
夫は、女性は気にすることが多いというより、私が普段気にしすぎだ、と言いたいようだ。けれど、喧嘩している暇はない。ああ、これも言っておかないと。
間違えて公共の男子トイレに入らないように。
外出
家を出てから、すぐに激しく後悔した。日焼け止めを塗るように言っていない。五月は、年でいちばん紫外線が強いというのに。
帽子くらいは被るだろうけど。日傘なんか、邪魔だと言って差さないかもしれない。半日で肌に受けるダメージが気になって、泣きたくなる。
気にしても仕方がないので、無理やりポジティブに振る舞う。学校への道は、大半が閑静な住宅街である。
生育が気になっている燕の巣を覗いたり、暗渠の泥を掻き出している男性に挨拶する。
「お疲れ様です!」
軽く言っただけのつもりが、よく通る野太い声だ。相手も笑顔で帽子をあげてくれた。こんな声が出るのなら、夫の体も悪くない。
学校での、夫のタイムスケジュールは、事前に確認して覚えていた。けれど、同じ持ち場の人の名前を、ちゃんと覚えていなかった。
「○○くんパパ、今日はよろしくお願いします」
私は焦った。この人は坂田しげる君のお父さんか、迫田まさや君のお父さん。どちらか。
いや、迫田まさや君、坂田しげる君だったろうか?
名前は似ていない。けれど名字は似ている候補が二人。一瞬の逡巡の後、
「サクタさん、よろしくお願いします!」
文字通り間を取った。良いやり方だと思った。相手は、私の滑舌が悪いだけだと思うだろう。けれど、坂田さん、もしくは迫田さんは、なんだか怪訝な顔を浮かべたような気がした。夫に申し訳ないと思った。
「○○くんパパ。来たよ」
「あ。ありがとうございます!」
保育園時代に世話になった教師が、何人か連れだって観覧にやって来た。
支援学校には、地域の学校で定型とされる枠におさまらない、病理疾患を含む様々な特性の子どもが集まる。親・保護者以外の生育支援に関わる大人の数が多い。ゆえにイベントの門戸は広い。
教師陣グループの中心にいるのは、いちばん小柄ながらいちばんパワフル。いつも笑顔の元園長先生は、発達障害児受け入れの実績のない保育園で、行政支援を調べ、息子に加配を提案してくれた。当時のことを思い出すと、感謝してもし過ぎることはないように感じる。
経営者からのパワーハラスメントで息子の卒園前に退職へ追い込まれたが、数年経っても息子を気にかけてくれる情にあつい教師だ。
少し遅れて、夫(私)と息子もやってきた。駆け寄って「日傘」と耳打ちする。
「いや、もう着いちゃったし。見てるとき傘差すのは迷惑でしょ」
その通りである。
けれど再び「マスカラ!点々と目の下についてる」
乾かないうちにまばたきをしたからだ。
「気付かなかった。後で取っとく」
ヘラヘラと笑いながら、学校内に入っていった。
悄然として持ち場に戻ると、「仲が良いですね」と冷やかされた。曖昧に笑って誤魔化す。
手伝い
受付では、保護者名簿に斜線を引き、ゲストには名前を書いてもらう。種目が開始したら、自分の子の出番を見に行っても良い。担当は、学年別の二人以上が同じ持ち場に配置されており、一言断ってから場を離れる。
支援学校は都道府県立で、正確には小学校ではない。支援学校というものの中に、小学部・中学部・高等部がある。
支援学校・高等部は、あくまで高等学校に準じる学校であり、卒業しても、高等学校卒業の学歴は得られない。支援学校の入学時、子供の発達・進路に悩む保護者は説明会に参加する。
悩みの種が増える。
学習進度や子供の居場所が確保できるのか、気になる。保護者としての悩みと、親の功名心とがない交ぜになり、周りに付いていけず居心地の悪い思いをしたとて、無理にでも地域の小学校に入学させた方が、子供のためになるのではないか、と考える。
けれど、それぞれの我が子が同心円のどこにも属すことなく外に弾かれたような排斥感を大なり小なり抱いていた保護者。
いざ支援学校に入学してみると、不思議な一体感と安息を得ることになる。
楕円のトラックの半分は、生徒たちの待機場所で、学年ごとにテントが張られている。聴覚過敏でヘッドフォンをつけた子供がたくさん見受けられる。
目に移った「何か」に気を取られ、待機時間だというのに、どこかへ行こうとする生徒を、教師が引き留めている。
高等部担当のPTA会員は、学舎の見回りという仕事がある。人前で軽率にマスターベーションをしてしまうことがあるからだ。
さて、本日は快晴。運動会日和。息子は今日、ここで、普段とは違うちょっとした頑張りを見せる。
応援
低学年の種目はプログラムの前の方になっている。まだ体が小さく精神も幼い。ただ待つということへの負荷が大きいからだ。
地域の学校、一般的な運動会と違うのは、声援が少ないことだろう。
新型コロナウイルスの蔓延前後による違いではない。頑張れなどと言われずとも、生徒たちは学校で頑張っているし、その声援が逆効果になる子も多い。勝利にこだわりが薄く、それよりもいつもと違う周囲の観衆や、いつもと違う設備、トラックに引かれた石灰など、なんでもないような変化が気になってしまう。
徒競走では、ヨーイドンの合図とともに、ゲーム性に忠実に走る子、散歩のように歩く子、観衆の中大好きな人を目敏く見つけて脱線し抱きつきに行く子、笑顔でスキップする子、石灰を足で丹念になぞりながら進む子、傍目から明らかに競争が嫌いでグズグズする子、座り込む子、皇室の一族並みに観衆へ向けて手を振りながら進む子、ゴールテープが気に入らないため潜る子、様々である。
障害には、発達障害や自閉症スペクトラムのように見た目から分かりづらいもの、ダウン症候群や軟骨無形成症のように、見た目に特徴があるとされ察しがつくものとがある。ダウン症候群の子は、その場その場を心底楽しみ、全力で頑張っている気がする。
軟骨無形成症の子がとんでもない俊足で、コーナーを攻め、手足が長く筋肉がしなやかな子らを次々と抜かしていく様子は、まるでデフォルメ調のキャラクターが出てくるゲームのいちシーンのようだった。
翻って気分のムラが目立つのは、自閉症スペクトラムの子らだ。息子はそう診断された。
その診断名から、子供の将来を見ようとして不安になる。実際には、親であっても、おいそれとは見通せない無数の要因が成長過程にあるのに、診断を生涯負の要素として捉える。
そして、親の役目はマイナスを払拭することだという使命感に囚われる。
子供の側から見れば、単に「そういう世界」から閉じていたい。ただそういう時があるに過ぎないのだが。
ともあれ、「マイノリティ」としての自己認識は、SNSで呟いてみると、自分のことをマイノリティとも思えないほど多くの共感や意見が集まるのは、面白い。
普段、自分がどれだけ烏滸がましい被害妄想を炸裂させているか、格子のついた窓からほんの少し世間を見ることができたような気になる。
「発達障害の息子のイベント、カオス」とつぶやくと、子育て支援事業者だという複数人から「ですよね」と感想コメントがついた。
情報の氾濫は、世界を広げるよりむしろ、個人の欲しい情報と答えを直線で繋げただけにすぎない。自分の意識がふと周りに広がった時にだけ、世界は広いと感じられるようになった。
大衆に埋もれることで得られる安心感も、あるのだ。
保護者は各々スマホやカメラを構えて見入っているのは、地域の小学校と同じだ。
「すごいね」
「去年よりずっと良い」
ほのぼのと子供の成長を称え、涙ぐむ人さえいるなか、マイナートラブルは無数に発生している。
事件
突風が吹く。
「うわー!!」と叫んだ子がいた。演技の最中、持っていた旗が軸にくるくると巻き付き折り畳まれてしまったようだ。
教師は気にせず演技を続けるよう合図を出したが、その子は気付かず、旗を元に戻すのに、夢中になっている。
ハンディタイプの扇風機に、マスクを引っかけてしまったという観客の女の子がいた。その母親が、受付でハサミを貸してほしいと頼みにきたが、女の子が「そのマスクは切ったらダメ」と譲らない。母親はぶつくさ言いながら観覧に戻った。
「ねえ、これマイク入ってる?入ってない。絶対入ってないよ!」という誰かの声が、スピーカーから流れてくる。
どこまでが障害でどこからが特性かなどと、この場ではどうでも良い。ひいてはこういう場所が、今だけでなく、どこにでもあるのなら、子供の将来の不安なんて、杞憂に過ぎない。
勝利への渇望は感じられない。頭の中は、言うまでもなく個人個々様々で覗くことはできないが、このような催しであってすら協調性にプライオリティはない。
それが言動に出る生徒が多く、バラバラ、混沌としている。にもかかわらず、この運動会に在る一体感は何なのか。
包括性である。
もし、運営側が「協調性の乏しい者を集めて何かを一緒にするなど無意味。強いられる方も苦痛だろう」と言えば、このイベントは破綻する。
息子が保育園にいた頃、運動会や学芸会で、すべてに加配の先生がつき、事あるごとにパニックになり、先生を困らせているように見えたのは、苦痛だった。
子供を生む前は、保育園のイベントなど、学習進度関係なく親は誰でも楽しめ、子の成長に感動できるものだと、信じていた。
練習段階ではバッチリだった、去年より進歩している。どう誉められても、所詮は他人事で慰められているようにしか聞こえない。
どうして、そんな風に思うのかと言えば、そのイベントにある一体感の正体が、練習の成果の披露にあり、絵的に我が子がその方針から外れているから。
けれど、結局成果を第一に考えるのなら、数字で評価し劣っている者は切り捨てれば話が早い。
学校は所詮学校。母数を少なくし、子数を上げれば、評価は当然上がる。
そうした競争社会の実態をそのままに、差別を認めないことが歪みとなる。
静かに解決している
息子の出場する競技が終わり、今日は観客席と呼ばれているトラック周辺から離れて、塀の近くに腰を降ろしている時に気付いた。
夫婦入れ替わり症が戻っている。まだ昼前。治るのに半日もかからなかった。
一緒に観覧していた(らしい)ママ友が、「そろそろ帰ります?」と聞いた。
「あ、そうですね」
見ると、彼女は涼しげなレーヨンのブラウスに長ズボン、アームカバーにレースのついた帽子をかぶって、ちゃんと遮光している。対して私ときたら、剥き出しの腕には無駄毛の剃り残しさえ、あるじゃないか。
まさかママ友の前で、鼻毛が気になって指で押し込むなどしていないだろうか、ふと気になり不安に駆られたが、気にしない。
忘れよう。早く治って良かったじゃないか、と自分に言い聞かせる。
「そうですね、帰ります」
「ん?ああ、はい」
昔から、小さい・聞きにくいと言われる私の声は、些細なことでも首を傾げられることが、よくある。それでも、自分が戻ってきたことにホッとする。
週明けに病院へ行く可能性は、考えずとも良くなった。
帰路には個人家の松から松へと飛び移り、ご機嫌にツピツピと鳴いている四十雀がいた。それを聴きながら、私はぼんやりと、息子への労いのことばや、晩御飯の献立のことを考えていた。