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掌編小説 | 踊り子のひまり

今の気持ちを表現するにはどんな動きをすればいいだろう。

やおら膝を落として、力なく床の木目を見つめる。もうほとんど残されていない力を絞り出すように右手を握り締めるも、他の肢体を動かす力はとうに消えた。頭をもたげ、上体を起こしているのもままならず、風に吹かれて倒れてしまいそうだ。その抵抗としてせめて横に倒れた。起き上がることはついに叶わない。それでも握りしめている右手だけがまだ諦めず震えている。

ひとしきりシミュレーションしてみるも、頭を振り払った。悲しい動きだ。それに、誰が私の右手の動きなど見るだろうか。観客が見るのは席から見えている部分だけであり、裏側でどんな動きをしていたって何も意味がないのだ。極端な話、幕が上がったら張りぼてだけ見せておいて、裏側でテレビでも見ていればいいのだ。同じように、私が心の内でどんな感情を育てて表現しようが、相手には何も伝わらない。自分にさえその本質は分からない。考えるのも労力の無駄だ。
ひまりの心はここまでに荒んでいた。

「あなたの踊りには自由がない。動きは丁寧で正確だけど、なんかこうぱっとしないわね。まるで飛行機。あらかじめ決められた航路をまっすぐ飛んでいくみたい。私がほしいのは揺れながら舞う花のような踊りなの。」

顧問から受けた評価は辛辣しんらつなものであった。この高校のダンス部に招致している外部コーチだ。つまり、部活動中の私達しか知らない。それ以外の時間をどう過ごしているのかなど、当然外部コーチは知りえない。空き時間にどれだけ努力を惜しまず過ごそうが、与えられたこの短い時間で全ての判断が下され、評価される。ひまりはそれがたまらなく悲しかった。私でさえ見えていない部分をも否定された気持ちがして、彼女の未成熟な心には応えた。罵声を浴びせられながら何度もリテイクしていくうちに、次第に自然な笑顔で踊ることが出来なくなっていった。

指導を繰り返す度に悪化していく私への指導を早々に切り上げ、次に名前を呼ばれたのがあの子だった。体育館の照明と顧問の熱烈な視線を真向に浴びて踊り回る。彼女は正に自由だった。表も裏も美しく、風に乗って舞う花びらのようであった。私にはない、単純な華麗さがそこにあった。私は彼女の動きから一時も目を離せなかった。一瞬だけ反骨心が沸き上がり背筋が伸びるが、こっぴどく打ちのめされた後だ。そう長くは持たない。彼女のパフォーマンスが終わると、夕暮れ時の萎れたひまわりのように活力を失い、私の繊細で華麗なつもりの表現は、ついにこの日も誰にも認められることなく終わっていった。

私に足りないもの…。

帰り道は異常なほど長かった。夕方にしては空は明るいものの、太陽はじきに姿を隠そうとしているのが分かる。しかし、もはやそれを見届ける余裕はない。誰が見ても落ち込んでいると分かるように、分かりやすく頭をもたげて歩いていると、ふと道端に見覚えのある花が目に入った。


――ヒメオドリコソウ。



十二年前の母親との会話を思い出す。

「みてー?これあたし!」
母と歩くいつもの散歩道に一列に並んだひまわりが現れると、私はそれをしきりに指して教えてあげるのだった。

ひまわりが大好きだった。”ひまり”という名前のせいか、周りからはひまわりちゃんと頻繁に呼ばれ、それがまんざらでもなく、むしろ嬉々として受け入れていた。
それが起因して私=ひまわりという公式が自然と成り立ち、ひまわりが咲いていると仲間を見つけたみたいに「あたしだあたしだ」と騒ぎ立て、まるで私がもう一人いるような錯覚に悦に浸った。太陽を見上げて立ち並ぶひまわりの隣に立ち、私も同じ角度で首を上げて突っ立ってみせたりもした。決まって母は笑ってくれた。母は娘から同じ道化どうけを何度見せられても、くだらないと一蹴することなくまっすぐに私を見つめ、その眩しい笑顔を照らしてくれたのを覚えている。

思い返せば、私は名に恥じぬひまわりのような子どもだった。相手が誰だろうと選り好みせずに分け隔てなく遊ぶことのできる明るくて優しい子。
どうだろう。今の私はそれを信じることが出来ない。
まるで今の私はそうじゃないみたい。

そう。私はひまわりなんかじゃない。


いつだったか。いつものように”ひまわりのポーズ”をして母を笑わせようと試みた時、母はいつものように笑ってくれたが、笑った後に何やら改まって屈みこみ、目線を合わせてきたことがある。

「ひまりって、どうしてひまりって名前なんだと思う?」
「ひまわりだから!」
まるでそれが教科書に載っていたかのように、自信に満ち溢れた回答をする。
しかし、母は首を振った。
「ひまわりも素敵だけどね、あなたはこのお花の名前からとったのよ」

私はかなりショックを受けたのを覚えている。ひまわりから視線を下に向けると、その花はあった。そこかしこに。母の指差した花は、”ヒメオドリコソウ”というらしく、終わりに”ソウ”と付くことからも、緑の多い見た目からも、どう見ても花ではなく、雑草のたぐいだった。本当に花と呼んでよいのか迷うほど地味で、それにも関わらず隣にもその隣にもまたその隣にも大量に群生していて、全員が悲しげに私を見ているようだった。全部が私だと思うと、なんだか気持ち悪かった。当時の私は雑草が名前の由来になったなんて信じたくなかったし、何より心底信じ切っていたひまわりでなかったことがたまらなく嫌だった。

なぜ母はあんなことを言ったのだろう。あれから私は自分がひまわりでないことを隠し、遠ざけるようになった。
不意に思い出された記憶が、忘れたい思い出としてぼんやりと薄れていく。
同時に、母親の笑顔も蜃気楼に呑まれて消えていく。


私の本当の由来を前に、昔母が私にしてくれたように、屈んで目線を合わせてみた。形が似ているホトケノザよりも控えめに伸びた花弁を見て、やはり地味な花だなと自虐する。
指先でてっぺんを撫でてみる。意外に太く芯のある茎が左右にしなる。
指を離した時、反動で振り子のように揺れ動いた。

ちょうどその時、仄暖ほのあたたかい風が後ろから頬を撫ぜ、それを受けて目の前の花たちが、互いに呼応するようにゆっくりと体を揺らし始めるのを見て、私は確信した。

これは私だ、ひまりだ。


何よりも美しく見えた。
荒んでいた私の心は雲を抜けたように麗らかに浄化されるようだった。

こんなに綺麗な花が、足許でいつも見守ってくれていたのだ。それにも関わらず私は目を逸らし続けていた。ひまわりでないことを心の内で恨み、それから逃げるように無理をして上を見上げていた。
下を見ればこんなに暖かい眼差しが待っていたというのに。

忘れていた会話の続きを思い出す。


「このお花はね、私が一番好きなお花なの。道端にこんなにたくさん咲いているのに、ひまりこのお花知らなかったでしょ。でもね、私だけはこのお花の素敵なところを知ってるし、一番大事にしたいって思ってるの。」

姫舞梨ひまり、あなたに対しても、ずっとそうありたい。ひまわりじゃなくても、誰にも見られなかったとしても、お母さんだけはずっとあなたを見守ってるわ」


気付いたら、私は駆け出していた。
母に褒められた長い髪が風に乗ってはためき、視界の端でひまわりが小さく揺れた。





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