声を出して読みあげること
祝詞を身につけるということを振り返る。
実際に祝詞を唱えるときはどんな感じでしょうか?
一番最初は祝詞集などを目前に開き、文字を追いながら、間違えないように声を出して読みますね。ゆっくりと、なるべくはっきりと。
祝詞はルビを振ってあるものが市販されていますが、基本的に漢字と、万葉仮名という漢字の音の宛字の組み合わせで書かれています。
なので慣れるまでは目で追うだけでも大変かもしれません。
言葉の意味も考えながら唱えるでしょう。祈りですので。
それでも何度も同じ祝詞を唱えているとそのうち自分の発した声、つまり音で覚えるようになります。
音で流れを覚えているので目だけで追うよりも続きが読みやすくなっていきます。
そして、同じ祝詞を何度も繰り返せば、暗唱できるようになります。
歌と同じで音で続きが口から出てくるのです。
いろいろな祝詞を覚えていくと、同じフレーズが使われていることが結構あります。なので油断していると他の祝詞とフレーズが合流して迷ってしまうことがあります。また、無意識に飛ばしたり、違う祝詞を部分的に唱えたりしてしまうこともあるでしょう。
そういうことを直していくうちに、身につき、今度は速度や発声や息継ぎなど、個々の工夫をしていきます。歌と一緒ですね。
それでも頭から飛んでしまうことはあります。が、毎日唱え続けます。
このあたりになると、祝詞の出だし以外は、自分の声を自分で聞き、次の音が出てくるという逆転現象になります。このときの自分は無心です。無心の心に、自分の声が耳に入ったときに意識化に祝詞のイメージを呼び起こす感じですね。
そして、そのうち意識しないで全文を唱えられるようになります。
祝詞は唱えているときは神様と祝詞の意味のイメージと文脈は頭に残っているけれども、基本的に無です。
発した言霊はありのままの自分ですので、無心でも無意識下では祈りとなっていると思います。
もちろん祈りごとなので、祈りの場合は意識化に想いを乗せます。
神様は言霊を食べられるそうですよ。
神主さんはなぜ暗唱しないのでしょうか?と質問してみました。
以前、とある一宮で禰宜さまに色々聞く機会がありました。その時になぜ神主さんは暗唱しないのでしょうか?と尋ねましたところ、
神主さんが祝詞を紙に写して読み上げるのは、同じフレーズで迷うことが無いように、また、神様の前で、お願い事をされた方の言霊を間違うことはできないからだということでした。
祝詞は宣る?奏上する?
これは、自分も知るまでは誤解していたのですが、
「宣り処言(のりとごと)」を省略した語といわれ、神さまの御言葉を宣り下す処という意味があるとされています。 つまり、もともとは神さまが、神聖な場所から私たちにいい聞かせる御言葉だったようです。
「御神勅がくだされた」みたいなことなので、「祝詞を宣る」という言葉だとおかしくなりますね。
大祓詞では、「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」「かく宣らば」なので、祝詞は宣るものだと勘違いしていました。
祝詞は奏上し、誓詞は宣言し、大祓詞は大(スメラミコト)がアメノコヤネノミコトに宣命します。
祝詞の文体には、宣命体と奏上体の2種類があり、現在では多くが奏上体で書かれています。奏上体は末文が「…白す(もうす)」で終わるのに対し、宣命体は末文が「…と宣(の)る」で終わります。
日月神示を声を出して読むこと
日月神示の動画を観ました。
内容は良かったです。楽しく拝見できました。
実際に音読することは、実践としてはとても正しいと思います。
実は9周音読の結果、「けもの」「共食い」に付いての解釈があまりに直接的だったことに、少し疑念を感じておりました。
元警察官ならではの興味深い解釈がされていました。
宗教に携わる人を卑下しているようにも感じましたが、時勢と、警察官ならではの人を分析する感覚でしょう。
正直タイトルの、「神様の序列」という言葉は「神様」を儒教で区切っている気がして好きではありませんでした。
日月神示を最初から読んでいくと、天の日月⦿さまの三千年の大峠に関して人々のために積極的に動いておられる神様に対して感謝申し上げるべき(喜びこそが弥栄)として祝詞を伝えていたという印象を持っていましたので。
確かに御三体の大神様は別格のようです。
雨、風、岩、荒(雷)→地震は国常立大神様の働きの現れです。
そしていずれも皆さんが経験したことのあるかもしれない、参拝後の神様の反応です。
竜宮の乙姫様も大活躍です。艮の金神様も日の出の神様も。
とはいえ、読み込んでいることは話している内容からわかります。
でも知識の部分で読み解けない部分があったのだろうなとも思いました。
イメージを広げるにはある程度は知識が必要になるのですが、今は調べれば見つかるので、たとえ神示の受け取り方が異なっていてたとしても、それは誤りではなく、知識や経験や感覚が自分と異なるからと思っています。
むしろ、その解釈を聞かされて、成る程と気付かされることもあると思います。
日月神示の音読実践者として、実践による気づきを共感できるだけで嬉しいものなのです。
警察官ならではの「悪」に対する考え方は一つの気づきでした。
ただ、陰陽思想とも言われますが、善の引き立て役の「悪」のこの立ち位置について、元の神様は無くそうとお考えのようです。ようは「必要悪」というものは認めないということのようです。
日月神示では「悪」について多く語っていますので、段階や形態や場など状況によって解釈が分かれるだろう言葉でもあります。
ただ、自分はこの理解をすれば「悪」に悲しみは感じれど、魅力など感じないと思うのです。
あとは、「悪」とは何かを神示でどう読み解くか。
肚に入れた神示をより磨きをかけること
自分なりの感性を発揮させている人が真剣に取り組んだのち肚に入れて、どのように解釈したかは興味があったりします。
同じ武道を学んでいて、磨きがかかって精錬されたものに見惚れるみたいなことでしょうか。
色んな人が日月神示を読んでいるならば、実は解釈方法は八通りぐらいじゃ収まらないでしょうが、正解は八通りしかありません。
誤ったことでなければ、成程なぁと思うところが「道」だと思います。気づきを得るのはあくまで自分なので。
「ひふみ神示」を実際に音読することで、身になって現れてくるところが神示のすごいところ。
「神様の視点で人の世を思って直接的に言葉を残したという書物」
真偽を疑う人があるにせよ、事実であるので。
聖書とは比較できないと思いますが、聖書のように「この節は今の自分のこと?」という読み方ができるのは共通していますね。
音読することで自分だけでなく自分の周りの霊にも聞かせてやってほしいというところも霊界と現界の共鳴方法が垣間見えて良いと思います。