【短編】『僕が入る墓』(遡及編 十一)
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僕が入る墓(遡及編 十一)
屋敷での食事は、今までに食べたことのないものばかりが卓に並んだ。奈良漬けの瓜に、マグロとヒラメの刺身。小皿には醤油。そして牛鍋が卓を一層賑やかにさせた。清乃はそれらをどう食べて良いのかわからないまま周りを取り囲む女たちの箸の動きを真似た。
一人遅れをとって食事を済ませると、皆が一斉に居間からいなくなった。清乃も寝室に戻り、夫の久保田正孝との枕の間に赤い簪を置いて脱衣所へと向かった。屋敷には珍しく内風呂があるのだ。実家に住んでいた頃は、村から少し離れた町にある銭湯に週に一度通っていたが、単なる大衆浴場だった。屋敷の風呂は据え風呂で、真っ黒で巨大な茶碗のようなものが二つ整列して並べられており、その手前に取り付けられた木目の蛇口からお湯が出た。清乃はゆっくりと湯船に浸かると、窓の外から入り込んでくる仄かな杉線香の香りとともに又三郎の顔を頭に浮かべていた。
又三郎は元気にしてはるかな。また会って話さしたいな。これまでの又三郎とのたわいもない思い出の数々に胸が痛くなった。自分は贅沢な暮らしなど求めていなかった。貧しい暮らしでも愛する者とともにいれば幸せでいられると信じていた。この屋敷の中には愛情が見当たらないのだ。そう思いながらも自分を包み込むお湯の心地よさにすっかり身体は淫してしまっていた。
部屋に戻ると、清乃は枕元に手を伸ばして先ほど置いておいた簪を探した。しかしいくら探してもその簪は見つからなかった。奥の部屋からは女たちの笑う声が響いていた。しばらくすると部屋の明かりが消えて静かになった。清乃はふとこの闇に紛れて屋敷から逃げてしまいたいと、自分の着せられている洒落た衣服を強く握りしめた。
昼下がりに、又三郎は畑仕事を手伝おうと太助の畠に顔を出した。しかしいつもなら懸命に働いている太助はんの姿はそこにはなかった。畠には鍬や鋤も見当たらず、そもそも朝から畠に来ていない様子だった。又三郎は嫌な予感がした。近頃、清乃はんの姿も見かけなくなった上に、さらに太助はんすらいなくなってしまったのではないかと思ったのだ。又三郎は我が家族を探すかのように足早に丘の上の茅葺きの家へと急いだ。
その日はやけに蒸し暑く、頭上から絶え間なく垂れてくる汗に思わず視界を失いかけた。丘の上の着くと、その家はいつになく大きく見えた。もはや屋敷と呼んでも良いほどに立派だった。玄関を通り過ぎると、いつも忙しなく足を動かしている女たちの姿は見当たらなかった。すぐに、長い廊下を歩き、次々に空っぽの部屋を通り過ぎていくと、大きな居間に差し当たった。戸を開けると、そこは空っぽだった。家の隅々を確認しても人の住んでいた形跡はまるでなかった。それ以上又三郎の身体から暑さで汗が垂れることはなかった。外は冬景色へと様変わりし、又三郎の身体は冷え切っていた。
「父さん! 母さん!」
又三郎は必死の思いで叫ぶも、その掠れ切った声は誰にも届くことなく闇の中に吸収されていった。夢を見ていた。あれは太助はんの家などではなく昔自分が暮らしていた屋敷の記憶だった。寝床から起き上がると、下に敷かれた藁はしょう便でも漏らしたかのようにすっかり汗が染み込み細長い丸を作っていた。
赤い簪は居間の戸棚の隅に隠して置かれていた。下女か夫の愛人の仕業のようだった。清乃は、いつもの如く白い花を眺めようと中庭に入った。自分があの大雨の日に見たものは幻ではなかったことを知らしめるように、その花ははつらつと咲き誇り清乃の疲弊した心身を癒した。
「綺麗でしょう」
突然どこからか聞こえたその声に、清乃は動転しそのまま後ろに倒れ込んだ。その声はたちまち形をなして、男の手が清乃をそっと抱え込んだ。上を見上げると、久保田正孝が笑みを浮かべながらこちらを見つめていた。
「すんまへん。脅かすつもりやなくて――」
「いえ。うちこそごめんやす」
清乃は立ち上がると、狭い空間に年の離れた夫と二人きりになってしまったことにたちまち緊張が走った。
「実はこれ、一度とっていかれてしもうたことがあって、こうやって高い草木で隠しとるんや」
「貴重な花とですか?」
「ああ、白百合という花や」
久保田正孝のその白い花に向ける眼差しからは、妙に情緒的なものが感じられた。顔の表に描かれた優しそうな笑みの中には、また別の種類の感情があるようだった。
「ヨーロッパから輸入してきたんや。やから珍しいのや」
「ヨーロッパ?」
「外国のことや」
清乃は外国についてあまり知らないだけに物珍しそうにその花を見た。不意にそれが、どこか遠いところからやってきた素性のわからぬ又三郎と重なり一瞬目を輝かせた。
大気の温度も落ち着き、少し肌寒いほどだった。米の収穫はもう間近だった。又三郎は毎年のように太助はんの畠の稲刈りを手伝おうと田園の道を歩いていた。稲刈りをするために落水をして田んぼの水を抜く必要があった。又三郎は家まで来ると太助はんの名前を呼んだ。
「太助はん。又三郎や。待たせたで」
家の中から女の返事が聞こえると、太助はんのかみさんが顔を出した。
「太助ならさっき畠さ行ったで」
「ほんまですか。すれ違ってもうたのかな」
「そうかもしれんです」
毎年落水をしに来ているが、こんな早朝に畠に向かうことなどなかったがために又三郎はどこか違和感を覚えた。ふと太助はんがいつもより張り切って畠を耕していた姿を思い出して、彼が収穫に向けて心を弾ませていることを読み取った。
「んじゃ、わしも畠さ向かいますんで」
「はい。お気をつけて」
太助はんの畠に着くと、靄で高く聳えた稲の先端が見えないほどだった。畠には太助はんの姿はなかった。どうもおかしいと思いながら、畠の周りを歩いていると、ある場所の稲だけが小さくそして四角く刈り取られているのを発見した。又三郎は妙だと思った。
この頃の太助はんには不自然に思える行動が多々あった。清乃はんが突然なんの挨拶もなしにいなくなってしまったり、異常なほど畠仕事に邁進し始めたり、太助はんは小作料の減免をきっかけに覚悟を決めたといった様子だった。かみさんは太助はんが畠にひと足先に向かったと言っていた。助けはんはどこに行ってしまったのだろうかと思いながら、又三郎は前に同じような夢を見たことを思い出した。
太助はんや清乃はん、おかみさん、子供たち、そして婆さんまでいなくなってしまったかと思いきや、そこは昔住んでいた自分の屋敷に様変わりした。自分は最近突然清乃はんがいなくなったことに何か恐れを抱いているのかもしれない。そう思った。その恐れというのが、彼女に対する恋慕や心配の念などではないことは確かだった。そこには漠然と、自分が過去失ったものの影が潜んでいるように思えた。
又三郎は訳もわからぬ不安に苛まれ、太助はんを探しに久保田はんの屋敷へと歩を進めていた。屋敷の入り口が視界に入ると、自分の勘が当たったように太助はんの後ろ姿が遠くに映った。太助はんは何かを抱えながら屋敷の中へと入っていた。又三郎も後に続いて、開いた扉の隙間からこっそりと中へと入った。
屋敷の中はまだ早朝だからか人の気配が感じられなかった。誰も歩いていない廊下には、死と静寂が調和されたような異様な空気が漂っていた。すると中庭から廊下へと靄が入り込み、たちまち又三郎の頭に昔住んでいた屋敷の光景を甦らせた。そこに一人の女の姿が映った。
又三郎は目を疑った。清乃はんが品のある身なりと化粧を纏って遠くの廊下を歩いているのだ。又三郎は思わず口を開いた。
「清乃はん?」
そう呼び止めるも、女は応答することなくそのまま遠くの部屋へと歩き去ってしまった。あれは清乃はんなのだろうか。一方で、身につけていた衣服からして屋敷の住人のようにも見えた。清乃はんがここに住んでいるはずもない。だが、あの美しい顔立ちは清乃はん以外には考えられなかった。又三郎は自分がまだ夢を見ているのではないかと思い、訳がわからなくなった。
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