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【短編】『僕が入る墓』(遡及編 三)
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僕が入る墓(遡及編 三)
度々家に顔を出す又三郎は他の小作人たちとは風格が異なり、側から見るとまるでお上の人をもてなしているようだった。しかし又三郎の異常な人への依存体質は交わるはずのない二つの空気を無理やり一体化させ、たちまち上下左右のないまっさらな関係値へと変わっていった。太助には、その不自然さを認知するほどの聡明さはなかった。太助が重きを置くことは、自分の日々の労働の成果と、家族の生活の維持だけだった。又三郎の太助の家への介入は、畠での共同作業の延長と認識していたのだ。
いつしか又三郎は夕飯を食べに度々家に訪れるようになった。夕方に家の外から太助と又三郎の声がすると、妻はすぐに米を二合余分に炊くようになった。又三郎の働きぶりがそれに匹敵するかどうかは妻には知る由もなかったが、太助の面子を潰すまいとそうするしかなかった。あとで、又三郎が帰ると妻は太助に不満をこぼした。
「又三郎はん、とぉしおきゃくになってばかりだに――」
「どうしたんや?」
「どうしたやない。このままやとおらほう、ささらほうさらだに」
「あんじゃねえづら」
「ごもしんだで、もう又三郎さんおらほうさ呼ばんでくれんか?」
「又三郎はん、いっぺぇ手伝うてくれたんや。仕方ねえだに」
「そんでも――」
妻は何かを言いかけ、口を注ぐんだ。
娘の清乃は又三郎に対する警戒心を解くことはなかった。常に又三郎からは遠い席に座り、又三郎が清乃に冗談を言うと、すぐさま母親の背に隠れた。又三郎の話す都会の言葉は清乃にとっては真新しいものだった。その異質さに慣れることにはかなりの時間が必要だった。清乃の警戒心は母親譲りでもあった。母が父である太助との関係性を深められたのも、父が母の家の畠で働きたいと嘘をつき父の方から母に近寄ったからこそ叶ったそうだ。母は奥手な人のようだった。
ある日、清乃が家の外に出て、井戸から水を汲んでいる時のことだった。その日は母も父について畠へと行ってしまい、家の中は婆さんと自分、そして弟たちだけが残っていた。桶を井戸の下へとまるで赤ん坊を下ろすかのように慎重に下げていくと、水の跳ねる音とともに水面に当たって縄を引いた。うまく水を掬い上げて縄を引いていると後ろから突然声がした。清乃は驚いてそのまま桶を水面へと落としてしまった。後ろを振り向くと羽織袴を着た又三郎が清乃のことを物珍しそうな目で見つめていた。清乃はすぐに井戸の方に視線を戻して、自分をそこにいないものとした。しかし、又三郎にとっては、声をかける絶好の的だった。
「おや、太助の娘でねえか。一人で家事なんてご苦労なこった」
「――」
「おっかさんいないんけ?」
清乃は又三郎の方を一瞬向いて首を振った。
「そうか。畠さ行ってるんか。困ったな。ちょいと野暮用で来たんやけど――」
又三郎はそう言って、清乃の返事を待った。清乃はどう答えて良いか分からなかった。――そもそも又三郎とは口を聞いたことすらなかったのだから。綺麗に眉間に皺を寄せた美しい横顔をしばらく眺めてから再び又三郎は言った。
「実んとこ、太助はんに鍬借りてたもんで、返しに来たんやけど、おらんのやったら勝手に片してくんで」
又三郎は茅葺きの小さな家の玄関に立てかけられた鍬を持って裏手へと回った。清乃は、彼の行動が気になり、つい井戸から水を汲み上げることを忘れて後をつけていった。又三郎は、家の裏に建てられた小屋めがけて歩いて行き、暗闇の中に消えていった。小屋の奥からする物音は、まるで家に盗人が入ったかのように騒がしかった。しばらくして又三郎が出てくると、腕に持っていた鍬は無くなっていた。両の手を叩いて埃をはらいとこちらへと向かっていた。清乃はすぐに井戸の方へと走り、そばまで行くと何事もなかったかのように縄を引いた。
「清乃はんも大変やのお。どれ、わしが手伝うてやろうか?」
清乃はその言葉を聞いて身体中の穴から汗が吹き出しそうになった。一歩一歩と地面を踏む草履の柔らかい音が近づいてくるたびに、清乃は体を硬直させて縄を強く握った。気がつくと、清乃の手を囲うようにもう一つの手が上から重なり合っていた。清乃は息が苦しくなった。
「離してみい」
「――」
清乃は高鳴る鼓動を聴かれまいとすぐに手を離し、くのいちのごとく無駄な動きなく一歩下がった。又三郎は縄をゆっくりと引き上げていた。清乃は息を大きく吸い込むと、目の前の光景が一変したように思えた。それが不思議なことに、小さい頃よく家に訪れた世話人の男の後ろ姿に似ていたのだ。清乃は目を疑った。
世話人は地主に雇われて小作料の取り立てを主に担っていた。凶作で米の収穫が少ないときには、無理に米を要求せず、多く獲れた山芋やごぼうなどをもらっていった。父がうまくやっていたこともあるが、その世話人の男の配慮は著しかった。近隣の小作人たちが小作料の高さに不満をこぼすと、率先して地主との話し合いの間に入った。世話人の男は時々父や母が畠仕事でいない時には、家事を手伝ってくれ、家族の世話をしてくれた。しかし清乃が十になって以降、彼の姿をめっきり見なくなってしまったのだ。他の世話人も小作料の取り立てをしに家に顔を出すことはなくなり、とうとう一人も現れなくなった。
又三郎は清乃の前で丁寧に縄を引き、小さな桶から大きな方へと水をこぼした。清乃は呆然とその姿を世話人の男と重ね合わせていた。どこか身なりの良い格好で、後ろ髪の結びもきれいだった。気がつくと、又三郎は桶を置いて満面の笑みで清乃の横を通り過ぎていった。その笑みの裏には、何か謎めいた感情がかすかに灯っているように見えた。
「太助はんによろしく言うといてくれ。ほいじゃ」
又三郎はかくしゃくと清乃の固まった背に挨拶して去っていった。
太助はなお一層又三郎との仲を深めていった。又三郎は決まって週の半分は夕飯を食べに家に寄った。皆に悪いと思ってか、自分の家の米を持ってきてはこっそり米俵の中に補充していた。清乃はその姿を遠くの物陰から見つめていた。
清乃は又三郎から声をかけられても母親の背に隠れることはなくなった。しかし依然として身体が凍りついて、清乃の方から一言も返すことはなかった。それを見て父や母、又三郎はおかしいと笑い合った。茅葺きの小さな家は大いに活気付き、一人家族が増えたも同然だった。清乃は又三郎への警戒心は残っていたものの、どこか嬉しい気さえした。この感情は人に伝えられるほど単純なものではなかった。
ある夜、皆が寝静まった頃、どこからか誰かの歌声が聴こえてきた。家の中を見回しても弟たちも母も父も婆さんも眠ってしまっていた。清乃だけは考え事をしていてなかなか眠りにつけなかったのだ。一度外の空気を吸おうと清乃は寝床をこっそりと抜け出した。皆を起こさないようにと裸足のまま戸を引いて家を後にした。
歌声は、丘を下ったあたりから聴こえてきた。夜の村には蛙の鳴き声が誰かの歌声にかぶせるように響いていた。畠のある区画まで歩いていると、途中で歌声はしなくなった。どこから聴こえていたのだろうかと、あたりを見回していると、一畝先に人影が映った。道のない畠の間を進むと、目の前に男が何かを口走りながら寝転んでいた。それはいつもの立派な袴を羽織った又三郎だった。清乃は妙に落ち着いた様子で又三郎の元へと近づいていった。
「小作人なんぞがわしに――。あー頭にくるわい」
「又三郎さん?」
「なんや、うるさいの」
「又三郎さん!」
「あ?」
「又三郎さん!」
又三郎は一度清乃の顔を見ると黙り込み、目を擦ってから口を開いた。嗅いだことのない嫌な匂いが清乃の鼻を刺激した。
「太助んとこの娘でねえか。うぃ。どうしたんやこんなとこで? うぃ」
「又三郎はんこそ、どうしたん?」
「ああ、わしは酔っ払っとるんや。もう何もかもうんざりでな うぃ」
「酔っ払っとる?」
「早よ家に帰り。うぃ。こんな夜中に綺麗な娘さ一人歩いとったらあかんで」
「――」
又三郎は再び呑気に歌い始めると、まるで清乃が夢の中の幻であったかのように、目をゆっくりと瞑った。清乃はくすりと笑うと、畠から家へと帰っていった。蛙の鳴き声と又三郎の歌声は度々共鳴しどこか心地よかった。
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