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【短編】『僕が入る墓』(遡及編 八)

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僕が入る墓(遡及編 八)


「この前、京太郎に畠さ買いてえと話したらしいやないか」

「ああ、けど到底おらにゃ払えねえ量やったです」

 太助は恥ずかしそうに久保田はんから目を逸らし軽く口角を上げた。

「あの畠あんたに返そう」

「え? とんでもねえだに――。おら払えねえですよ?」

「わかっとる。あんたからは米も金もいらねえ」

 久保田はんは太助の顔をまじまじと見続けた。

「その代わりやが――、組合さ畳んでくれへんか?」

 太助は久保田はんのその申し出に動揺を隠せなかった。もしや自分の覚悟を確かめているのではないかと思い、聞き返した。

「久保田はん、冗談はよしてくれねえですか? おらがそんなことするめぇ――」

 久保田はんは一度たりとも太助から目を逸らそうとせず、その表情は真剣そのものだった。

「太助はん、ほんまに言うてんねん」

 徐々に太助の面からは笑みが消えていき口は開いたままだった。太助は覚悟を決めて屋敷に来たものの、知らぬ間に久保田はんの口車に乗せられているのではないかと思い、小作人代表としての責任の重さに浮き足立った。


 太助の家では、男どもの体から放たれる酸の匂いと張り詰めた空気とが混ざり合い、そこは監獄と化していた。小作人たちは太助と又三郎の帰りを待っていた。争議の申し出さえ受けてもらえれば、あとは皆で地主を説得するのみだった。地主の返答次第では、奴らに痛い目を見せてやる準備さえできていた。これまで米を作るために用いてきた釜や鍬はそれにうってつけだった。清乃はそんな企みも知らずに、重たい空気に押しつぶされそうに家の隅に縮こまっていた。

「清乃や」

 家の外から母の大きな声がした。

「おっかあ」

 清乃は速やかに男どもの間を抜けて扉の向こうへと逃げていった。

「どうしただ?」

「おめえ隣の家さ行って婆さん見ててくれ。あしは男どもの面倒見るだに」

 清乃はもう家にいなくて良いとわかるとすぐに気がほぐれ、九死に一生を得たようにその場の幸福を噛み締めながら丘を降りて行った。婆さんの様子を見るのならあの殺気立った家の中にいるよりよっぽどましだった。清乃は解放された気分を満喫しようと婆さんのいる家を通り過ぎて畠の方へと歩いていった。

 畠にはいつもの村人たちの畠仕事をする光景はなく、焦げた色の土がただ鋭い日差しを真っ向から浴びていた。気がつくと、又三郎の畠のそばまで来ていた。何もすることがなく、村人たちの命運のかかった時間を思いのままに過ごしていると、ふと近くから不思議な香りが清乃の鼻をかすめた。見たこともない花が一輪木々の隙間に隠れるように咲いていた。その花は透き通るように真っ白で、朝顔のような漏斗状をしていた。朝顔よりはやや大きく、他の色は一切混じっていなかった。何という名前の花だろうか。清乃は珍しそうにその場に座り込み呆然とその花を眺めていた。すると何かを思いついたかのように不意に立ち上がり、その不思議な花の開いた茎の付け根に両の手を伸ばした。指に力を入れると、簡単にその茎は千切れた。清乃は又三郎の畠に視線を送ると、一瞬笑みをこぼし鼻歌を歌いながら元の道を戻った。


 太助は久保田はんの誘惑に負けまいと自分の意見を述べた。

「おらだけ畠さもろうて皆に合わす顔がねえです――」

「そんなん言わんけりゃええやろ?」

「おらもう約束しちまったです。皆の小作料を減らしてもらうと――」

「そうか。そりゃ残念な話や――」

 久保田はんにとっては、太助の白痴さを承知の上で鎌をかけた策略だったが、かえって太助の小作人たちへの頑なな忠誠心を醸すこととなった。

「おめえ、畠買い戻したら何しよう思っとったんや?」

「今まで通り稲耕して、それを金にしようと――」

「自作農っちゅうもんはひでえ税金取られんやで? おめえだけで米をそんな大金に変えれると思うとるんか?」

「――」

 太助は自分の無計画さをなじられ思わず舌を巻いた。自分には商売の才がないことは十分承知していたが、それでも今の貧相な生活を続けるくらいなら、ない頭を絞ってみる他ないと思っていたのだ。久保田はんは椅子に深く座り直し膝に肘を置いて太助を下から見た。

「どうや、おめえが収穫した米をわしが貨幣に変えてやるってのは?」

 太助は久保田はんの言葉に目を見張った。久保田はんは是が非でも争議を起こさせまいとあらゆる方向から駒を投げてきていることが手に取るようにわかった。

「――せやかて、ただじゃないでしょう?」

「いいや、ただや。なんなら村の奴らの小作料も減らしたる」

 太助は耳を疑った。今の今まで小作料の減免の申し出を跳ね返そうとしていた強情さとは打って変わって、自らそれを受け入れたのだ。

「ほんまですか?」

「ああ」

「そりゃ願ってもねえだに――」

 久保田はんが何かを言おうとした時、ポツ、ポツと水滴の落ちる小さな音が天井から聞こえてきた。久保田はんはその音に気を逸らされ、咄嗟に顔を見上げた。太助も同じく顎を上げ天井を見上げると、その小さな水の落ちる音は徐々に屋根を刺す唸りへと変わっていった。

「あかん。豪雨や」

 部屋の外からは、次々と勢いよく戸を閉める音が響き渡り、下人や妻子たちが大慌てで廊下をかけていく様子が窺えた。

 太助の家でも、激しい雨が降り注ぎ、男たちは各々の家族を心配して瞬く間に家を出ていった。太助の家は母親だけになり、いつもの空っぽな空間に男たちの濃厚な体臭だけが残った。清乃も雨に濡れながら一輪の白い花を片手に家へと急いだ。土で濁った雨水が坂道を駆け下り、その勢いと共に小作人たちも丘を下っていた。

 清乃は花を落とさぬように慎重に畠の高台に沿って足を進めた。連なる家々を通り過ぎ、坂道と担道の十字路に差し掛かった時だった。丘を下ってきた一人の小作人の男が、花を片手に持った清乃めがけて驀進し清乃の体を地面に叩きつけた。

「すまん! 平気か?」

 男は咄嗟に目の前の女を抱え上げ、長く濡れた髪を掻き上げて隠れた顔を露わにした。

「太助の娘でねえか! 怪我はねえか?」

 清乃は意識を取り戻すと、すぐに自分の掌を凝視した。先ほどの名の無い白い花は茎だけを残して散ってしまっていた。すぐにあたりを見回したが、すでに激流と共に白い花びらはどこかへと流されてしまっていた。清乃は哀しみに打ちひしがれその場に座り込んだ。

「あんじゃねえづらか?」

「――」

 清乃は男に何も答えることなく、ただ一本の細い茎を見つめていた。

「おら、子供さしんぺえやから帰るでよ?」

 男はそう言って、畠の方へと駆けていった。その後ろからも次々と男たちが坂を下ってきては清乃に目もくれずに横を通り過ぎていった。

 あの花は一体何の花だったのだろうか。清乃は土砂降りの中、先ほどの記憶を遡っていた。美しく均等に開いた六つの花びら。そしてその中から顔を出す黄色い雌しべ。その美しさは清乃に自由と純真を思わせた。清乃はふと右手に握られた花びらのない茎を見て、自分はもうその花を一生見ることはないのだと悟った。


 久保田はんは椅子から立ち上がり、全開の窓を閉め終えると、再び席についた。

「すまんかった。話を続けようか」

「へえ」

 太助の瞳の中には失ったはずの輝きが戻っていた。組合の皆に良い知らせを持ち帰ることができると胸を膨らませていたのだ。久保田はんは、太助の顔色を窺いながらここぞとばかりに言葉を切った。

「さっき言ったことまとめよう。あんたに畠をただで返す。それに収穫した米はわしの方で金に変える。あとは村人の小作料を減免。この三つや」

「へえ」

「んで、その代わりなんやが、今回は交渉ってことで一つ交換したいもんがあるんや」

「なんですか? なんでも言うてください」

 すでに太助は、自分の役目を終えたといった満足げな顔を見せていた。小作人たちの悩みの種であった小作料の問題を解決できるだけでなく、争議をする必要がなくなったため久保田はんにとっても面倒ごとが一つ減るのだ。太助は図に乗って再び口を開いた。

「どうしやした? おら持っとるもんなら何だってあげますで?」

 すると久保田はんは、まるでカマキリが目の前のイナゴに狙いをつけたかのような鋭い目つきで太助を見た。

「あんたのとこの美人な娘、わしにくれんか?」


最後まで読んでいただきありがとうございます!

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