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【短編】『僕が入る墓』(遡及編 十二)
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僕が入る墓(遡及編 十二)
又三郎は家へ戻ると、畠仕事を忘れてそのまま眠ってしまった。目の前にはまた屋敷の光景があった。今度は人混みが多く屋敷の中は活気に満ちていた。自分はその屋敷に住む地主のようだった。おおよそこの村に来る前の記憶が、その過去を忘れさせまいと必死に語りかけているようだった。
しかし廊下の外から聴こえた叫び声に気を取られ目を離した途端、目の前にいた人間たちは一斉に倒れ込んだ。皆、血を流して床に伏せていた。嫌な過去を思い出した時のように冷や汗をかいて目を覚ますと、自分の体から出る液は冷や汗どころではなかった。悍ましく生々しい夢に、その日は外へ出る気さえしなかった。
人気のない廊下を一人歩いていると、ふと清乃は地下の部屋が気になった。壁と床の間に取り付けられた隠し扉を開けると、そこには前に見た人一人入れるほどの真っ暗な穴が続いていた。一歩足を入れてみようと屈んだ瞬間、清乃の体は反対方向へと傾き、そのまま穴の中へと落ちていった。
地面に足がつくことを確認すると、腰の土をはらって起き上がった。目の前は絶えず真っ暗だったが、立ち上がっても頭を打たなかった。どこかに火を灯すものがあるに違いないと思い、あたりを探っていると、廊下の方から男の声が聞こえた。
「おーい。大丈夫か?」
「ええ、落ちてしまって」
すると男は蝋燭を持って階段を下るように背を向けてこちらへと降りてきた。
「奥様やないですか。怪我はねえですか?」
久保田正孝の商売の助っ人の男だった。
「はい。こんな早くから仕事とですか?」
「せやな」
「ご苦労様です」
男が蝋燭をどこかに設置すると、地下の部屋全体が照らされた。そこには縄や網、鉄砲、鉄でできた輪っかのようなものがいくつも決まった場所に置かれていた。
「罠や。わいらは小作人や他の地主たちに動物の罠さ売る商売しとるんや」
清乃は物珍しそうにその道具に見入った。
「でもなんで地下に?」
「ああ、久保田はんの案や。もうこれ以上金がかかるんで土地さ増やしたくない言うてて、せやったら地下に作るのはどうやと――」
「そうでしたか」
「ささ、仕事も始まるんで一緒に登りまっか」
男は調子良く清乃に声をかけると、荷物を抱えて穴を先に登っていった。清乃は一度穴の中を見てから男の後ろに連なった。
翌日、又三郎は太助はんの畠に行くも、またもそこに本人の姿はなかった。稲は伸びきって収穫を待ち侘びていた。ふと違和感が脳裏を走り、太助は一人でに屋敷へと向かっていた。屋敷の門は開いていた。人通りの多い廊下を密かに歩いていくと、以前入ったことのある客間の方から声が聞こえてきた。又三郎は壁に耳を当てた。
「うん。艶があっていい。綺麗や。そうやな、二円と五銭ぐらいやな」
「ほんまですか」
「わしに預けるんやろな?」
「そりゃもちろん。頼んますわ」
その声は、太助はんと久保田はんの声だった。
しばらくすると、外の方から何やら騒ぎが聞こえたので、すぐに廊下を降って門の方へと急いだ。すると、門の前で村人たちが大勢集まって何やらあの重役の男と揉めている様子だった。
「何事や?」
「それがよ、小作料さ減免する約束したのに、この男全然足りへん言うんや」
「そりゃおかしな話や」
「やっぱり太助はんおらたちに嘘ついてたんでねえか?」
「そんなことするはずもねえ」
村人たちの愚痴を聞いていると、ちょうど太助はんが屋敷の中から姿を現した。村人たちは一斉に太助に罵詈雑言を浴びせた。
「なんや突然?」
「おめえ、減免さ約束した言うたのに、この男そんなもんない言うてはるやないか」
「おらちゃんと久保田はんと約束したでよ。証文さもらったんや」
「じゃあ、今すぐ見せてみい!」
「家にあるんや。ほんまや」
「おめえ、地主から争議さ中止するよう金渡されたんちゃうか?」
又三郎はふとその村人たちの言葉に、太助のここ数日の不審な行動を思い出した。太助はんはわざわざ久保田はんの屋敷にまで行って何をしていたのだろうか。さっきの客間から聞こえた会話は一体なんだったのだろうか。確か、二円と五銭とかなんだか言っていた。それに何かを預けると。
太助は村人たちの容赦ない尋問にすかさず反論した。
「そないことおらがするわけあるめえ。」
その時、太助はんの額から一瞬汗が一滴落ちたのを又三郎は見逃さなかった。太助はんは必ず何かを隠している。そう又三郎は心の内で確信した。もし仮に昨日の早朝屋敷に入った時に、靄の影に見た女が清乃はんだったとするならば――、と記憶を結びつけていると、突然又三郎の頭の中で何か不穏なものが顔を覗かせた。太助はんは――、娘を久保田はんに売ったに違いない。その考えは瞬く間に又三郎の頭の中を支配した。先ほど、艶と言っていたが、それはこれから久保田はんのお相手をする女の肌のことである。そして清乃はんがその女であると合点がいった。
太助はんは怯むことなく村人たちに弁論し続けたが、やむをえずその場から退こうと屋敷の中へと戻っていった。村人たちはその逃げ腰を後ろから刺すように大袈裟に罵った。太助は屋敷の中で久保田はんを見つけると勢いよく迫り寄った。
「減免さ、嘘なんか?」
慌てふためく太助の様相を仏のような細い目つきで見て久保田はんは答えた。
「減免? なんの話や?」
「まさか、あんた、おらをだしに使うたんやな?」
「知らんなあ」
「組長のおらを言いくるめれば、争議さ起こせねえと」
「争議――」
久保田はんは突然黙り込むと、目を大きく見開いて唸るように言った。
「そんなもんいっぺんでも起こしてみい! 小作料さ倍にしてやるわ」
そして一息つくとすぐ元の優しそうな顔に戻り、うっすらと笑みをこぼした。
「太助はん。あんたはもっと賢いはずや。頼むで――」
太助は村人からの信用も、自分の娘も失い、途方に暮れた様子で呆然と屋敷から出てきた。その顔は罪の意識か失望の念かわからぬほどに生気を失って、ただただ地面を眺めていた。村人たちからの文句を受け止めながら無言のまま屋敷を去っていった。
又三郎は突然の騒動に当惑しながら、村人たちの間からじっと太助はんのことを見つめていた。疲れ果ててよたよたと歩き去っていく太助はんの背中を見ながら、不意に目の前に映る光景がどこか見覚えのあるように思えた。
と突然、又三郎の胸に激震が走りその場に倒れ込んだ。又三郎の頭と体は混乱を超えて、終わりの見えない恐怖に凍りついていた。まるで自分の存在そのものが現実と夢の中を行き来しているかのようだった。目の前に映る者の姿は太助はんであると同時に、自分自身でもあった。
かつて自分もああして絶望を抱えて去っていった過去を持っていた。その過去を思い起こした時に、農民一揆から命懸けで逃げてきたとばかり思っていたが、それは違った。自分は地主の裕福な暮らしとは無縁の一人の貧しい小作人だった。そして遠くの村で窮屈な世の中を恨み、地主の一家を皆殺しにしたのだ。
血を流して倒れている地主の服を奪うと、死んだ地主の霊に取り憑かれたかのようにそれ以来自分を地主と名乗るようになった。人を殺したと同時に生まれた果てしない絶望と罪悪の念によってそう嘘をつかざるを得なくなかったのかもしれない。かつて自分が小作人であったこと、そして地主を殺したことを認めてしまうと、たちまちその人殺しを正当化する責任というものがのしかかってくるのだ。
そして今、遠い存在のはずだったその責任と久方ぶりに対面すると、又三郎はその不気味で陰鬱な実態のないものに恐怖した。又三郎にとってその責任から解放される方法は二つに一つだった。
夜遅くに下女から起こされると、清乃はまだ夢の中にいた。母親が家の中で清乃の肩を揉んでくれていたのだ。
「奥様、起きてください。奥様」
何度か夢の外から声が聞こえてくると、清乃はようやく目の前にいるのが、母親ではなく下女であるとわかった。清乃は眠たげな顔で聞き返した。
「どうしました?」
「家が、家が燃えているのです」
清乃は咄嗟に体を起こしてあたりを見回すと、屋敷の中はしんと静まり返っており、煙の匂いさえしていなかった。
「燃えてやしないじゃないですか」
「いいえ」
と下女は一度息を吐いてから再び続けた。
「燃えているのは、あなたのお家です」
清乃はそれを聞いてたちまち言葉を失った。
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