【短編】『僕が入る墓』(遡及編 四)
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僕が入る墓(遡及編 四)
太助は収穫した米を俵に詰めて縄で縛っていた。小作料の支払いの期日はとうに過ぎていた。気温の急激な変化で収穫時期が遅れたのだ。この頃ほとんど雨が降らず稲が思いの外育たなかった。しかし又三郎という新たな助っ人のおかげで、米の収穫を無事終えることはできた。
又三郎もまた自分の畠で獲れた米を俵に詰めていた。又三郎には養う家族がいないため、米の貯蓄は少なくて済んだ。その分たくさん小作料を地主に返上することができた。独り身というのはなんて自由で楽なのかと太助は思ったが、子供達がかけっこをしている様子を見ると、暗い気持ちも忘れて安堵の笑みを浮かべた。
一町離れた場所に地主の屋敷はあった。以前にもまして太助には屋敷が大きく見えた。増築したのかあるいは、お互いの立場が地主と小作人に変わってから身分の差が大きく開いてしまったことに引け目を感じているからかもしれなかった。
屋敷の表門に貼り付けられた木の板には
久保田
と姓名が艶のある黒字で彫られていた。太助にとってはその名前を見ただけでも、自分の家にはない高貴さを感じ取った。
屋敷の中は広く、大きな松の木や池が母屋のそばに備えられていた。奥の米蔵まで米俵を担いで持っていくと、見たことのある顔が母屋の扉越しに映った。千吉だった。
「太助でねえか」
「おお、千吉はん。ご無沙汰で」
「米持ってきてくれたんか」
「へえ、今回はずでえ天に恵まれんでね」
「んー、半俵か。一俵にはならんのか?」
「へえ、んけどわしらもこいで精一杯でてえげなんだ。家の米もへー底さつきそうで」
「そうか」
千吉は黙り込んだかと思うと、すぐに笑みを浮かべて答えた。
「んじゃそれだけでよかろ」
「へえ、ありがてえ」
太助は深く頭を下げた。十分でない小作料で許しを得られたことに安心したものの、自分の意志で小作人になり地主に雇ってもらうという立場にいながら、顔馴染みだからと小作料をまけてもらうとはなんて情けないんだと自責の念に苛まれた。しかし、そんな綺麗事を考えていられる余裕などなく、家計が苦しいことは変わりなかった。太助は、又三郎の活躍がなかったらと思うと恐ろしくなった。
家に帰ると、妻が炊事をしており、息子二人と清乃は家にはいなかった。しばらく、囲炉裏のそばに座って火を眺めていると、婆さんが寝床から声をかけてきた。
「あんた、そんな顔してどうしただに?」
「別にい」
「また米さたりねがったんでねえか?」
「そうや」
婆さんは一瞬黙り込むと、目を大きく開けて助けの方を向いた。
「うちは貧乏やけど、あんたがそうしたんやで。それを忘れんとき」
「――」
婆さんは寝たきりというのに何もかもがお見通しのようだった。自分には商いの才がなかったためあいにく土地を手放したが、今の暮らしぶりからはそれが良い決断だったとは言い難かった。もし仮に土地を持ち続けて米を自ら売っていたなら生活は変わっていたのだろうかと、無駄な想像を膨らませた。
清乃はなんの目的もなく丘を降り、ただ無心で畠のそばの道を歩いていた。清乃は畠の方ばかりに目がいって、ろくに前を向いて歩いていなかった。清乃の目に映っていたのは、以前夜中におかしな話し方をしていた又三郎が寝転がっていた畠だった。あそこの稲はだめになってしまっただろうかと心配して見てみたが、すくすくと稲は育っているのだ。あの夜の出来事は幻だったのか、もしくは村人が新たに稲を植え替えたのかどちらかだと思った。
清乃は、不意に躓いて道から畠の方に落ちそうになった。その時、何者かに右手を掴まれた。又三郎だった。清乃は突然目の前に現れた彼に驚いたが、足に痛みが走ってその場に座り込んだ。
「また、太助はんの娘かい。わしらよく外で会うのう」
清乃は又三郎の話に聞き耳を立てることなく、骨に伝わる痛みに歯を食いしばった。それに気がついた又三郎も清乃の隣にしゃがんで足に手を当てた。
「平気か?痛むんか?」
清乃は何も言わずに首を縦に振った。意識が朦朧とするせいか遠くに映る陽炎がやけにぼやけて見えた。又三郎の手は冷たく湿っていた。腰には竹の筒をぶら下げており、冷や水をかけてくれたようだった。清乃はそのまま又三郎に倒れ込むように眠りについた。
目を覚ますと、茅葺きの天井が見えた。清乃は我が家に帰ってきたのだとどこか安心して再び目を閉ざそうとした。するとどこからか何かを叩く音が聞こえてきた。母が晩飯を作ってくれているのだろう。釜戸の方からするいい香りに安堵の息を漏らすと、誰かがこちらに向かってくる足音が家の中に響いた。清乃はゆっくりと目を開けた。
「起きよったか、娘さん」
清乃の頭上には袴を着た又三郎が立っていた。清乃はなぜ又三郎が家にいるのか理解できず動揺を隠せなかった。
「もう晩飯の時間やで」
「お父は?」
「さっき見に来はったんやけど、ちょうど晩飯で帰ってもうた。休ませてやってくれやって」
清乃はようやく自分が又三郎の家にいることを理解した。一つ屋根の下に男と女が二人きりでいることを知った清乃は、急に恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「足はどうや?」
「――平気」
「そうかい。飯食ってくやろ?」
清乃は軽く頷いて又三郎から視線をずらした。
出されたお椀には雑炊が入っていた。小さく切られた山菜、ごぼう、芋が米を埋め尽くすように乗っていた。
「すまんな、そんなもんしかあげられんで。凶作なんや」
清乃は米が少ないことなんか慣れっこだといった顔つきで平然と飯を頬張った。今まで一度も男に飯を作ってもらったことなどなかったがために、その雑炊は清乃にとって特別な味だった。清乃は食事を終えると又三郎の肩を借りて家へと帰った。
それからのこと、又三郎が家に晩飯を食べにくるたびに清乃は胸が高鳴って仕方がなかった。特に二人で会話をするわけでもないのに、又三郎の話を横で聞いているだけで彼との距離が少しずつ縮まっているような気がした。外へ出かける時もどこかで又三郎のことを探していた自分がいた。清乃はこの気持ちがなんなのか見当がつかなかった。
ある日、母から太助に届けるよう小包を託され畠まで向かった。畠には太助の姿はなく、休憩でもしているのかと思い、近くの茶屋に顔を出してみた。茶屋には遠い場所から来た旅人二人が身体を休めており、清乃の顔を物珍しそうに見た。
「美人さんばい」
「ああ、美人だばい」
「この村のもんと?」
清乃は質問されたことに気がついて、わけもわからず頷いてしまった。小包を置いて椅子に腰掛けると、二人は再び清乃に向かって話しかけた。
「ここは穏やかでよかあ」
「そうたい、うちは戦さばっかしでおうじょうしたばい」
「村人さ怒って偉う人殺ってもうたけん」
清乃には彼らが何を言っているのかさっぱりわからなかった。そのまま彼らが話に耽っているところをこっそり抜け出して、助けを探しに又三郎の畠へと向かった。
しかしいざ畠に着いてみると、又三郎もそこにはいなかった。二人ともどこへ行ってしまったのだろうかとあたりを探った。村人に聞いても誰も太助の居場所を知っていない様子だった。気づくと、母からもらった小包は手元にはなかった。清乃は一瞬冷や汗をかいた。母が必ず渡すようにとお願いされたものだったのだ。中に何が入っているかはわからなかったが、重要なものであることはおおよそ見当がついた。
清乃は来た道を戻って先ほど寄った茶屋へと急いだ。すでに太助は畠に戻っているかもしれないと思いながらも、必死に小包が茶屋にまだあることを祈った。茶屋の前まで来ると、清乃は両膝に手を当てて荒い息を吐いた。すると、どこからか誰かの囁く声が聞こえてきた。清乃には、その声が又三郎のものだとはっきりとわかった。又三郎は茶屋に誰かといるようだった。清乃は茶屋の表で彼の話を盗み聞きしようと壁に背を当てて座った。
「おりゃもうこの村さ出ていこう思うとるんよ――。米もろくに獲れんし、地主の久保田はんにはほとんど持っていかれるし。もうこのままとんづらこきたいんや」
「又三郎はん、そんなこと言わんといてくれ。わしんとこもだいぶ大変やけどなんとかなっとるんやし――」
話し相手は父の太助のようだった。父の声は長いこと又三郎と一緒にいるせいか都会の言葉がうつっていた。
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