小沢慧一「南海トラフ地震の真実」
「30年以内に70〜80%」は嘘?
自宅の集合住宅の防災委員を務めていることもあって「南海トラフ地震」は、目下のところ最優先のテーマである。この地震を語る時、枕言葉のようにくっついているのが「30年以内に70〜80%の確率で発生する」という長期評価である。国の地震本部が発表するこの数字には「明日起きるかもしれない」という切迫感がある。本書は、よりによって、この数字が信頼できない可能性が高いと主張する。南海トラフ地震の予測は他のエリアの地震とは違う特別な方法によって計算されていて、他のエリアと同じ方法で計算すると確率はなんと20%まで下がるという。「オイオイ」と思う。70〜80%と20%では受ける印象がまったく違う。なぜこんなに違うのか?その謎に調査報道で徹底的に迫ったのが本書。著者は中日新聞の記者。本書の元になった2020年に連載の「南海トラフ80%の内幕」により「科学ジャーナリスト賞」を受賞している。
南海トラフ地震だけが違う予測モデルで計算。
なぜ南海トラフ地震だけが特別な方法で予測されるのか?それを理解するためには、この地震の仕組みを理解する必要がある。静岡県沖から四国沖にまで伸びる南海トラフは、海側のフィリピン海プレートが陸側のユーラシアプレートの下に潜り込んでいくことでできる長大な海溝である。海側のプレートは陸側のプレートを引きずりながら潜り込んでいくので、陸側のプレートにはひずみが蓄積していく。そのひずみが限界に達すると、陸側プレートの端が大きく跳ね上がる。それが南海トラフ大地震である。この地震は、これまで95年〜150年の周期で発生している。地震の規模は一定ではない。この時の地震の「規模」と「周期」の関係に着目したのが「時間予測モデル」と呼ばれる、南海トラフ大地震だけに用いられる特別な計算法である。大きな規模の地震が起きると、次の地震までの時間が長くなり、小さな規模の地震だと、次の地震までの時間が短くなる。そして地震の「規模」は、地震で生じる土地の隆起によって知ることができるという。南海トラフ地震が特別なのは、江戸時代に起きた2つの南海トラフ地震による土地の隆起の測量記録が残されていたからである。精密な測量機器など無かった江戸時代に、現在の地震科学に通用するような測量が可能であったのか?地震学者によれば可能であったということになる。それが高知県の室津港の水深測量データである。
「30年以内に70〜80%」の根拠は江戸時代の古文書。
江戸時代、室津港では港役人が置かれ、代々、久保野家がその役を勤めていた。この久保野家に伝わる文書に、二度の南海トラフ地震前後の水深測量の記録が残っていたという。水深、つまり土地の高度データである。江戸時代に起きた二度の地震と1946年に起きた南海トラフ地震、3つの地震における土地の隆起データから次の地震の発生確率を予測したのが「30年以内に70〜80%」なのである。「時間予測モデル」と呼ばれるこの計算法は1980年に東京大学名誉教授(当時は助手)の島崎邦彦らが発表したもので、地震研究など地球物理学分野における最も有名な学術誌で「最も重要な論文40」に選ばれている。時間予測モデルは2001年の長期評価で初めて採用された。(当時は30年以内に45%だった。時間の経過とともに確率は高まっていく)そして2013年に長期評価の見直しが行われ、その際に、地震研究者の間からこの予測モデルを疑問視する声が上がってきたのである。
地震研究者たちの疑問。
江戸時代に測量された室津港の水深データは果たして地震予測に使えるデータなのか?室津港の水深というが、それは港のどの場所なのか?また測量はどんな方法で行われたのか?縄に縛りつけた石を沈めたのか?竹竿を使ったのか?さらに、室津港は何度も浚渫工事が行われており、それによる水深の変化は考慮されているのか?予測を担当した地震研究者たちは、江戸時代に行われた室津港の水深測量データに疑問があると判断し、それに基づいた「時間予測モデル」にも問題があると結論づけた。そして南海トラフ地震の長期評価を、他の地域の地震と同じ単純平均モデル(過去の地震の発生周期を単純に平均する計算法)を採用することを提案した。しかし、この提案は地震本部の中の上部組織によって拒否されてしまう。そこで研究者たちは2つのデータを併記することを提案するが、これも拒否され、結局、時間予測モデルの数字だけが前面に出た文書として発表されてしまう。
「古文書の信憑性」と「長期評価会議への疑問」
著者は、2つの問題に焦点を絞って調査を進めていく。一つ目は久保野家に残された文書に記された室津港の水深測量データが長期評価の計算に使えるのかどうかという検証。つまり南海トラフ地震にだけ用いられる「時間予測モデル」が根拠としているデータそのものが信頼できるのかどうかという検証である。もう一つは地震研究者たちによる長期評価の見直し提案が上部組織によって、なぜ拒否されたのかという疑問。著者は忙しい新聞記者の仕事を続けながら、長期評価の会議メンバーを取材したり、高知の久保野家を訪ねたりして調査を進めてゆく。
久保野文書を追う。
まずは久保野家に残された文書の検証。2001年と2013年の長期評価で、その根拠となった江戸時代の室津港の水深データが記録された久保野文書は、元々明治の著名な地震学者である今村有恒が高知県を訪れた際に、久保野家の当主に会って発見したものだ。2013年の長期評価発表の際に、この文書に記されたデータの検証を行うことが記されている。しかし、その後、検討が行われた事実は無い。そこで著者は自らこの検証を行うことを決意する。室戸市役所や久保野家の末裔にコンタクトを取って古文書そのものを確認しようとする。このあたりは歴史ミステリー的な面白さがあるが、詳細は省略。本書を買って読んでください。地震学者も巻き込んで文書のデータを検証した結果は「30年以内の発生確率は38〜90%」である。確率の幅がこんなに広がった理由は、地震の度に行われたという室津港の浚渫工事で、隆起の数字に1mもの誤差が出る可能性が出てきたこと。さらに潮位による誤差を含めると、さらに確率の幅が広がる可能性があるという。これでは「時間予測モデル」への信頼は大きく揺らいでしまう。
地震サイエンスVS行政・防災。
もう一つの問題は、地震学者たちによる長期評価の見直しの提案がなぜ拒否されたのか?長期評価は、文部科学大臣を本部長とする「地震本部」(地震調査研究推進本部)の「地震調査委員会」で発表されるが、その検討と取りまとめを行うのは「長期評価部会」である。さらに南海トラフ地震のような海溝型地震の長期評価は、下部組織である「海溝型分科会」が実際に検討を行うという。著者は、長期評価部会の議事録を取り寄せたり、会議の出席者にインタビューして、時間予測モデル採用の経緯を探っていく。そこから浮かび上がってきたのは日本の地震研究や防災行政に大きな影響力を持つ「地震ムラ」の存在である。
「地震ムラ」のルーツは地震予知。
地震予測のルーツとも言える地震予知。そのきっかけとなったのは1976年、神戸大学の石橋克彦名誉教授(当時は東京大学理学部助手)が唱えた「東海地震説」(駿河湾地震説)である。彼は「駿河湾を震源とする巨大地震が明日起きても不思議ではない」と述べ、世間を震撼させた。危機感を持った国は、1978年に、地震予知を前提とした「大規模地震対策特別措置法」(大震法)を成立させた。大地震のの発生を、前兆現象の観測によって予知し、政府が警戒宣言を発することで被害を抑えようという構想だ。静岡県には「地震防災対策強化地域」として2020年までに計2兆5119億円の対策費が投じられた。しかし実際には、東海地震は発生せず、地震は起きないと思われていた関西で阪神・淡路大震災が発生する。前兆現象による地震予知ができないことが明らかになり、政府と地震予知の研究者をしていた地震学者へ批判が集まった。当時、地震予知推進本部長を兼任していた田中真紀子科学技術庁長官は「地震予知に金を使うぐらいだったら、元気のよいナマズを飼った方がいい」と言い放ったと語り継がれている。地震予知推進本部は「地震調査研究推進本部」と看板を掛け替え、政府の目標は地震予知から予測に切り替わった。そして2011年、東日本大震災が発生する。地震学者は、またしてもこの地震を予測できなかった。しかし、福島の原発事故のせいで、地震学者たちは批判に晒されることなく、かつて地震予知ができると主張していた地震学者や、その弟子、孫弟子が、そのまま地震研究の中心の座に居座り続けることになったという。地震学者の一人は、「かつては地震予知のためと予算の申請書に書くと他の分野に比べて格段に額が大きい予算が出た。実際にはあまり予知に関係なくても予算が通りやすくなるので、私も随分そうやってきた。今は予知ではなく、防災のためと書けば予算が取りやすい」と語る。
予知から予測・防災へ。
2016年、政府の中央防災会議は大震法の抜本的な見直しを掲げ、検討を開始した。そして2018年に検討結果を発表した。その内容は東海地震の予知情報(警戒情報)を実質的に廃止し、震源域で異常現象を観測すれば臨時情報を発表するというものだ。異常現象とは、南海トラフの震源域の半分でM8級の地震が起きた場合(半ワレという)などで、残り半分の沿岸住民の一部に政府が呼びかけ、1週間程度の避難を要請するということらしい。臨時情報は警戒宣言と違い、住民や企業に対して拘束力のある指示・指令ではない。あくまで情報を提供し、対応については個別の判断に任せるというもの。この発表について、新聞は社説などで大震法の廃止を訴えたが、蓋を開けてみると、予知のような精度の高さをうたわないことにより地震学者が「責任を問われない仕組み」ができただけで大震法は残った。さらに「想定外」を無くすために、発生する地震の規模や被害の大きさを、考えられる最大に想定することになり、最大で死者32.3万人という東日本大震災をはるかに超える被害予想が発表された。地震学者たちは自分たちの責任が問われないような仕組みを作りながら「30年以内に70〜80%の確率」と「未曾有の被害予測」で人々の危機感を煽る。それによって自分たちの研究費やポストの配分を牛耳ってきたのだ。かつて地震予知をうたった科学者とその弟子、孫弟子たちによる「地震ムラ」の存在。彼らこそが「長期評価」の見直し」を拒否しているのだ。
「前兆現象」はオカルトみたいなもの。
著者は「地震ムラ」に属さない研究者のロバート・ゲラー東大名誉教授にも取材している。ゲラー氏は「前兆現象はオカルトみたいなものです。確立した現象として認められたものはありません。予知が可能と言ってる学者は全員「詐欺師」のようなものだと思って差し支えないでしょう」と言い切る。
そういえば。
本書を読んで、色々と思うことがあった。ずいぶん前は「東海地震が‥‥」なんて言ってたなあ。それが東海地震、東南海地震、南海地震の3つの地震になって、最近は3つまとめて南海トラフ地震と呼ばれているみたいで、「半ワレ」のように、聞いた事がない言葉が出てきた。「30年内に70〜80%」の数字も最近になって
出てきたのではないだろうか?GPSによる測量とか、スーパーコンピューターの活用などにより、予測の精度が上がってきたから確率が出せるようになったのかな、ぐらいに思っていたが、どうもそうではないらしい。江戸時代の古文書に記された不確かなデータに基づく予測モデルが科学的に検証されないまま、今もこの国の地震研究の中心に居座っている。僕たちは「地震ムラ」の人々が、自分たちの都合がいいように作り上げた情報に随分振り回されてきた気がする。地震予知に関する本や地震を予測するとうたう有料サービスにどれだけお金を使ってきたことだろう。前出のゲラー氏によれば、地震の周期説でさえ科学的に証明されていないという。
長期評価の弊害。
それでも本書を読み始めて、予想の数字を多少大きく訴求するのは、人々の防災意識を高めるためには有意義なのではないかと思ったが、読み進めるに従って、それは間違いであることがわかる。2016年に熊本地震を引き起こした布田川断層帯の30年確率は「ほぼ0〜0.9%」だった。この数字は地震の発生確率としては決して低くないそうだ。しかし熊本県では企業の誘致に、地震災害が少ないことをアピールしていた。北海道地震で被害を受けた道や札幌市、苫小牧市も企業誘致に長期評価を使っていた。南海トラフ地震だけが飛び抜けて危険度が高く表示される現在のハザードマップでは、それ以外の地域では地震が起きる可能性が低いとミスリードされてしまうのだ。
それでも地震はやってくる。
今後、僕が南海トラフ地震を語る時に「30年以内に70〜80%」という枕詞を付けるのはやめようと思う。「時間予測モデル」だと今世紀前半、平均モデルだと今世紀中に起きるという。地震はいつかきっと来るのだろう。僕が生きている間に来るかどうかはわからないが、その備えは今後も続けていくつもりだ。
「○○○ムラ」だらけの国。
「地震ムラ」「原子力ムラ」「防衛ムラ」…。この国には、いったい幾つの「ムラ」があるのだろう。「ショックドクトリン」ではないが、リスクがあって、そのために政府や学者や企業が動けば、やがて利権やコミュニティが生まれ、それを自分たちで囲い込もうとする「ムラ」が生まれる。一旦「ムラ」ができてしまうと、それを解体するのは容易ではない。本書のような真摯な報道に期待するしかない。
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