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雑記。恋愛の為の恋愛、結婚の為の結婚。

 タイトルには敢えて恋愛や結婚と付けたが、最近は何処へ行ってもこういう⚪︎⚪︎の為の⚪︎⚪︎のような『本質』的な話題ばかり見かける気がする。金儲けの為の金儲け、とか。僕が思うに、本質に拘りすぎた議論というのはかえって本質から物事を遠ざけると思っていて、例えば、恋愛や結婚を上手くやる為には?というメソッドがあるとする。しかし、人間関係の実体を無視したテクニックを駆使して誰かと結ばれたとして、恋愛や結婚の本質とは結ばれることそのものではない。本質とは、その後にも継続する日常生活(人生)だからだ。逆に言えば、生活の中で自然と恋愛や結婚に行きつかない人間が、それらのステータスだけを求めて強引に邁進した所で、生活に紐付いていないなら全く見当違いの努力をしているわけだ。なぜなら、恋愛や結婚に人生が付随しているのではなく、人生に恋愛や結婚が付随しているからである。もし、恋愛を上手くする為のメソッドなどというものがあるなら、まずは人生そのものを豊かにすることが本質的なんじゃないか。

 側から見ていると、恋愛の為の恋愛が上手くなればなるほど、その本質である人生そのものが下手になるように思える。まるで、滑稽な寓話のように、上手な恋愛のテクニックを使って理想の相手を厳選し(妥協で相手を選ぶのは恋愛下手とされる為)40歳近くになるまで独身でいるのが真の恋愛強者だ……のような捻転が起こってしまう。これでは裸の王様のようなものだ。

 失敗を恐れるあまり、物事を複雑に捉えてしまい、賢いはずの人間が愚かものの愚かな決断よりも、いっそう愚かになってしまうというのは『イワンの馬鹿』辺りでも読んだ一つの真理だ。僕的には、もし本気で恋愛や結婚による幸福を求めるのなら、高望みをし続けて『賢く』独り身でいるよりは世間的には物足りないとされるパートナーと『愚か』にさっさと結ばれる方が近道に思えるし、もしそれを違うと思うのならばたぶん『本質的』に求めているのは恋愛や結婚以外の欲求なのだと思う……例えば、生活の経済的安定とか、人間との頻繁なコミュニケーションとか、自己承認とか。自分が本当に求めている欲求のラベルがわからないと、近似している恋愛に吸い寄せられて、恋愛が全てを解決すると錯覚し、いつまでも満たされない恋愛をしてしまうんじゃないかと思う。これは金儲けでも、学歴でも何でも同じである。手に入れることそのものは決して本質ではない。

 そうやって、恋愛や結婚以外にも話を広げると、そもそもそういった駄目な本質論を語りたがるインフルエンサー(バズ)による影響に人々は流され過ぎているように見える。定期的に湧く『初デートにサイゼは適切か?』のような男女論から、『真の勝ち組とは何か?』のような漠然とした人生論まで、殆ど本質的な議論をしている人間などいないまま声の大きな対立煽りに巻き込まれて有料のNoteを買わされたりしている訳である。

 そもそも、何かについての本質とはそのものAについてだけ考え抜けば見えてくるものではなく、Aやそれに関連するBやCとの関係性の中に浮かび上がってくるものであって、個別的に抜き出すものではないのだと思う。本質は決してわかりやすい形などしていないし、誰かに教えられて「そうなんだ」と納得できるようなものでもない。生きた体験の中で、ある日、ふと天啓のように降りてくる実感であり、またある程度は移ろうものでもある。そうした不安定で答えのない問題をありのままで受け止めて、複雑なものを複雑なまま咀嚼する為の体力をつけていくことが重要なのだろう。

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