見出し画像

京大とリーダーシップ

私が大学生になったからか、最近、大学の存在意義が問われる機会が増えてきているように感じます。今日は Twitter で見かけた「京大はリーダーを育成すべきだ」という意見に反駁し、京大が果たすべき役割について考えます。

この記事は5分強で読めます。全 2,666 文字。


背景

 Twitter を見ていたところ、次のようなツイートを発見した。

 マッキンゼーの採用担当を長く勤めた伊賀泰代の著書『採用基準』の一節 [1, p.59–60] である。

 要約すると、以下の4点になるだろう。

  1. 京大は東京の諸大学と比べて英語とリーダーシップに欠ける。

  2. 京大生は学生の世界の中だけで生活しており、リアルな社会を見る機会が少ない。

  3. 京大生は東京の大学生に比べて英語の必要性に対する危機感が乏しい。

  4. 京大は日本を代表する大学であるから、ノーベル賞を狙える優秀な研究者の養成だけでなく、産業に根差したグローバルリーダーも育成すべきだ。

 私は 1. – 3. の意見には大いに賛同するが、4. には賛同しない。

京大の価値

 京大はグローバルリーダーを育成すべきだという主張を評価するにあたって、まず大学とは何のための組織であるかを整理したい。

第八十三条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
② 大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

学校教育法 [2]

 大学の目的は2点、学芸を教授研究することと、研究成果を社会の発展に役立てることである。

 次に、京大は何のための大学であるか整理したい。

 京都大学は、1877年に設立された東京大学 (1886年より帝国大学、1897年より東京帝国大学) についで、1897年に日本で2番目の帝国大学として京都帝国大学の名で開学された。

 東京大学といえばエリート官僚を多数輩出することで有名だが、大学設置の目的は高級官僚の養成が本質ではないはずである。江戸時代には既に優れた教育制度が整っており、かなり高い水準の教育が提供されていたのだから、わざわざ官僚を養成するためだけに機関を設ける理由がない。

 明治期、東京大学が設置されたのは、西洋から遠く離れ、鎖国によって近代化の波に乗り遅れていた日本を急速に産業発展させることを国が主導したからだ。いわゆる「殖産興業」である。すなわち、東京大学の設置目的は、本質的には日本の先頭に立って国内産業を牽引するリーダーの養成であると考えるべきである。明治・大正期には国内産業の牽引が国家主体で行われており、官僚がリーダーの役割を務めたというだけにすぎない。

 翻って京都帝国大学は全く設置経緯が異なる。帝国大学といえばただ一つ東京市本郷区の大学を指した1890年代初頭、京都に帝国大学を誘致しようとしたのは元老・西園寺公望であったとされる。市井には立命館を創設したことで知られる西園寺だが、今の立命館大学は西園寺が私塾「立命館」を放棄して留学したのちに西園寺から名前を譲り受けた京都法政学校が本流で、西園寺が開学に関わったわけではない。西園寺が主体的に開学に関わったのはむしろ京都大学こそである (松田 et al., 2021 [3])。

 西園寺は第二の帝国大学開学にあたり、政治や経済の中枢から離れた京都の地に自由な学問の場を設けることを強く主張した (松田 et al., 2021 [3])。すなわち、京都大学の設置目的は高い見識と自由な発想をもって新たな発見を生み出す研究者の養成と考えるべきである。ビジネス界の好みそうな言葉に言い換えるとすれば、新たなソリューションを創造する先進的人材の育成である。

京大生と問題解決

 この意味で、伊賀 (2012) の主張 4.「京大は日本を代表する大学であるから、ノーベル賞を狙える優秀な研究者の養成だけでなく、産業に根差したグローバルリーダーも育成すべきだ。」に私は賛同しない。組織運営に強みを持ち、トップダウンに物事を牽引していく “リーダー” の育成は東京大学の役割である。関東の大学の役割である。政治や経済の中心から距離を置いた、それも、あえて意図的に距離を置いている京都大学にそのような役割を主眼に求められても困る。

 京都大学はむしろ、広い視野と多様な発想力を発揮し、物事の本質を直観して画期的な解決策を導く “研究者” を育成するべきだ。これは伊賀 (2012, [1, p.60]) の言う「ノーベル賞を狙えるホームランバッター」の育成とは全く異なる。研究者の養成は単なる学術発展のみの効用にとどまらず、これもまたリーダーの育成と同じく実社会に根差した有要な社会人の輩出だ。伊賀の主張は本質を捉えておらず、京大の価値を過少評価していると言わざるを得ない。

 伊賀 (2012, [1, p.60]) は「「リーダーシップの欠如」に関しては問題意識さえ欠落している」とも主張しているが、それは大学として積極的に対処すべき問題ではない。目標を適切に設定し、それを達成する適切な手段を取ることはもちろん重要であり、京大生こそ蓄積された膨大な知識と自由で創造的な発想によってこれを達成する。組織の統率が出来ることも確かに目標達成の重要な手段であるけれども、それは京大生が京大生として本質的に身に付ける能力ではない。バイトやサークル活動、研究室内の自律的活動等の社会活動で身に付けていくべきではあるが、大学全体としてはやはり、(学術に限らない) 研究が旺盛にできる学生を養成していってもらいたい。

おわりに

 明日から大学の定期試験が始まることにびっくりしています。びっくり! (語彙力喪失) この記事がいいなと思った方は、ぜひスキやシェア、フォローしてください。よろしくお願いします!

引用文献

  1. 伊賀泰代.(2012).採用基準 地頭より論理的思考力より大切なもの.ダイヤモンド社.ISBN: 978-4-478-02341-9.

  2. デジタル庁.(n.d.).学校教育法 (昭和二十二年法律第二十六号).e-Gov 法令検索.https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000026

  3. 松田文彦・今西純一・中嶋節子・奈良岡聰智.(2021).清風荘と近代の学知.京都大学学術出版会.ISBN: 9784814003297.

いいなと思ったら応援しよう!