方言と標準語、そして外国語。

 以前にも「言語の境界線」について書きました。実は、ぼくは標準語、もっと厳密に言うと東京弁がまったく話せず、苦労したことがあります。

 小学・中学時代といじめや友人からの暴力・暴言に苦しみ、高校も地元のヤンキーが闊歩するところに通いました。そのなかで、「この環境から何としてでも抜け出したい!」という思いからぼくなりに勉強し、高知県西部の公立高校から、東京・八王子の大学に進学しました。

 「これでやっと楽になれる!」と思っていた矢先、東京についた途端、「これは困ったことになりそうじゃ!」と思ったことがありました。それは、羽田空港についた瞬間に耳に入った、東京の雑踏で皆が話している言葉でした。「これが東京弁か・・・テレビドラマの言葉そのままじゃ。これをしゃべらにゃいかんということは、こりゃ、弱ったことになったのぉ・・・」と、正直思いました。

 実は、ぼくが生まれ育ったところは隣まで2kmある山奥で、曽祖父が村のはずれに開墾した土壁が落ちかかった貧しい農家でした。同年代の友人と初めて出会ったのは、最後の1年だけ通った保育園のときだったので、5歳になってから。いわゆる、「言語形成期」に頭の核にはすでにその土地の高齢者の言葉が入っていたので、友人からは「老人の言葉や」といわれ、大変苦労したことを覚えています。

 それがまた再現されたのか・・・と思い、その後4年間、東京の言葉や風土に馴染むのにえらい思いをしました。またその頃から適応障害やいまのうつ病にいたるものが発症し始めたので、なおのこときつく感じられました。
 (都会から帰ってきて公務員として働き始めたのちは、高齢者と話すときに自分の古い方言が大いに役に立ちました)

 その一方で、幼い頃から知らないものに興味を持つ性格上、外国語には興味がありました。中学校になると貪るように英語を勉強し、高校時代には90年代始めに放送が始まったNHK-BS1、BS2での海外のニュースやなんかを見て、英会話が若干ですができるようになりました。下手ながら、フランス語やなんかもこっそり勉強し、最近では韓国語・中国語も勉強していて、楽しいです。

 数年前に、松山からソウルに一人で行ったときのこと。仁川国際空港による着いて、ソウル市内への空港鉄道の駅がわからなくなりました。で、その辺にいる女性に「あのぉ・・・공항 철도 역은 어디입니까?」(空港鉄道の駅はどこですか?」と聞きました。相手がきょとんとしているので、「実は日本人なので、あまり上手に話せないんです。」というと、実に丁寧に教えてくれました。ちょっと自信でした。

 ぼくのなかでは、標準語も、外国語も、なにかいざ話すとなると同じようにぎこちなくなります。「だってさぁ、今日雨降ってるんだもん。」というのも、「因为,今天下雨来了。」というのも、同じ感じがします。多分、ぼくが奇妙だとおもうのですが、人ができることができないことに劣等感を感じ、自分ができることで特別視されてしまうことに、いまでも小さくなったりしてしまいます。

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