松本人志の遺作となるか?「R100」のガッカリ感の正体(敬称略)
※以前書いたコラムですが、松本人志を見直すために再掲してみました。
松本人志監督の4作目です。前作までの「大日本人」「しんぼる」「さや侍」は全て劇場に足を運びました。けれども今回は不覚にもDVDでいいやって。
松本人志がどんな作品を創出し、驚かせてくれるのか?
という彼の人生への興味よりも、自分の人生で手が一杯になったから、見送ってしまった。
単純に大日本人からどんどんつまらなくなっている感じがしたというのもあります。ただ、松本人志への敬意はありますので、観るまでは一切レビュー等には触れないようにしてました。なるべく情報をシャットダウン。
それでも飛び込んでくる、各方面からの「酷評」の声。
「カラスや犬までも!?」と、ドクタードリトルだったらそんな勘違いしてしまうことでしょう。
そのくらい、とにかく褒めている人いない。
ということで、問題の内容なのですが、僕くらい松本人志が好きだと、面白くなくても面白いと思える魔法の補正をかける事ができるので実は全く当てにはならないけれど言わせてください。
あれ、なかなか面白いんじゃないか!?
ハードルがめちゃめちゃ下がって、ニュートラルな気持ちで鑑賞したわけじゃないからそう思えるのかもしれませんが。
なんでも期待しすぎると損ですね。
(子供の頃、サンタにセガサターンを頼んだのにもかかわらずメガドライブが枕元に置かれていた時のがっかり感は今でもトラウマです)
また、松っちゃんが過去にどんなことをやってきたかを知っているからこそ、面白いと思える部分が(だから逆にがっかりするんだけれど)今回はより多かったように思えます。
例えば、伝説の短編コント作品集「ヴィジュアルバム」の「寿司」という作品をそのままセルフオマージュしていたり(この辺は有名ですが知ってるよね?日本人なら当然)、劇中で「あれ、揺れてる?」と地震をほのめかすシーンがいくつもあり、まるで何かの伏線であるような描き方をするのだけれど、松本人志を知ってる人なら
<多分何も起こらないのだろうな>と察することができる。
別に日本なんかじゃ、伏線だろうがなかろうが地震が起こるんだから。といった、踏み込んだリアリティーについて、自身の映画評論で言及しているのを知っているからです。
それは素晴らしい考え方であると思いました。
このように、今までの考えが(まぁあまりに露骨に)噴出しており、ファンとしてはいろんなレイヤーの結びつけで映画を楽しめるわけです。SだのMだのって、松っちゃんが流行らせた言葉だしね。
寿司屋に、踏切越しに、公園の噴水にと、日常の風景の中にボンテージ姿の女王様がふと気がつくと立っているわけですが、その光景もなかなか素晴らしく、途中まではどうなるのかな?とわくわくしました。
けれどもね、その興味が一気になくなる最悪な事態が訪れるのです。
ネタばれになるかもしれないけれど、この映画、100歳の老人監督が自身の最後の映画として撮っている、というメタ構造なんです。
多分この仕掛けのおかげで、酷評ランド駄作行きにが決定してしまったのではないかと推測できるわけですが、とにかくこの仕掛け、ちっともよくない。
突然、プロデューサーやらなんやらのとりまきがラッシュを観て嘆いているシーンがはじまるわけです。「あの、揺れている、って何なの?何かの伏線?」と、先にもあげた地震についてのシーンにプロデューサーらしき人物がスタッフに質問すると、
「今の日本のリアリティーらしいです」
みたいな返しをする。おいおいおい!
それって、バラしたら駄目なネタじゃないの?
映画の中でしれっと地震が起きるリアリティーなわけでしょ。
もちろん、映画内映画を説明しているので、成立はしているけれど、もっと他のネタでもよかったんじゃないのか。
結構大事な考えだと思っていたから、単発のギャグに使うってどうなの。
ファンからしたら自分は知っているぜ!とくすぐられるネタだったりするので、あのシーンはね、こういう松本監督の考えが反映されているんだぜ?なんて、得意げに言う事も許されない。
それが松本人志の映画の面白さだし、つまらなくても、俺はついていく、という気持ちにさせる要素の一つなのに、
貴様は何をやっとるんじゃ、ボケナス!!!
ファンだからこそ、頭にくる。
「わからない奴は知らへんねん!もうかりまっせ!」と言った、唯我独尊なその態度が結果、絶妙な奥ゆかしさを生んでいたのに、説明したらすべてひっくり返るじゃないか。
松本人志の笑いや、表現てのは「奥ゆかしさ」にあるわけです。
なのになぜか映画になると過剰な説明があまりに多い。
さや侍も、しんぼるも、本当に説明が過剰で観客を舐めきってる。
そういう態度がこの映画ではさらに進化し、映画を撮っている老人の映画であるという、居直りムービーにすることで、説明そのものに「必然性」を帯びさせ、あえてわかってやっている、といった批判を逃れる姑息な手段をとっているように感じ、実に潔悪い!!
どうどうとSMの話をやっていればいいんです。
もちろん、ついついメタをやってしまう気質であることはわかります。
笑いそのものには、メタ的な部分が多分にあるし、松本人志は特にそれが多い芸人。
大喜利の答えを観れば分かりますが、ほとんどのお題に対して一回俯瞰で観る態度が見受けられる。
この辺の影響はバカリズムとか千原ジュニアとか、まぁあげれば切りがないのだけれど、天才系の芸人たちがけっこう影響受けている。
確かに、そのメタ的な入れ子構造ってのは、そもそも成立してしまっている、思考や道筋を根本から疑うってことだから、当たればパイオニアになれるし、そう言う態度の人たちが新しい物や価値をつくっていくのだと思います。
だからつい二重構造に手を出して壊したく気持ちはわかるけれど、それを映画の構造に組み込む場合は、そうとう計算しないとだめなんじゃないか。
映画作りの苦悩そのものを描くのなら、100歳の映画監督がつくった最後の作品ってことにせず、そこは松っちゃんでよいでないか!
もうあんだけ、有名なのだから「お前誰?」とはならないだろうよ。
松本人志の映画観やお笑い観のロジックを全てあけすけに公開して、「アダプテーション」のように、周囲の評価に翻弄される人間的な弱さと照らし合わせながら、映画が少しずつ変容していく「葛藤」を描くとか、
ただ逃げ口上で「メタ」にしましたじゃあまりにお粗末。
ちくしょう、普通の感想になっちまう!!!!
それと、これは個人的な願いだけれど、やっぱり主役は松っちゃんがいい。
ビートたけしとか、ウッディアレンとか、野田秀樹とか、自分でつくって自分で出る人の自意識が好きなので。
彼らが出てない彼らの作品は、なんか魅力半減なんだよな。
なんだかメタメタのメタに言ってしまいましたが、もし松っちゃんが「M」だとしたら、酷評されまくる快感で満たされている可能性もあるので、もっと褒めてあげないとさらに酷評万歳っていう映画を作りかねないね。
ああ、北野武監督の「監督ばんざい」も映画内映画なわけですが、あれは面白いね。
ということで、点数は92点!!
いや、面白いのには間違いないからね。
けっこう「ゾッ」っとするシーンもあって、大地真央と片桐はいりが二人で歌をうたっているシーンがあるのですが、あれはちょっと怖かった。
わけがわからなくて。
けれどもそれも、メタ構造のおかげで半減なんだよなぁ。