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無限の闇と無限の光は愛の本質〜玄龍さんのレッスン〜

地獄に堕ちること
それは愛しきる覚悟があるのかと同義なのだ。


昨日の夜の話、サナトクマラに繋がった玄龍さんが私に問いかける。
一つ大きな氣付きと手放しがあった私に次の段階に進む話になった。

玄龍さん「そろそろ底無しの地獄に一緒に堕ちにいこうか。
君はいつも怖い怖いと言って、拒否をして命綱をしながら中途半端な地獄を見てるだけ。手を放してそこが見えない無限の地獄に落ちる覚悟がいるんだよ。」

私「地獄は怖いよ。わざわざ経験する必要はあるのかな。」

玄龍さん「だから君は中途半端な愛なんだ。偽善者ぶって、いい人でいてもそれは愛の本質ではない。それくらいの浅い愛しか与えることも受け取ることもできないんだよ。」

私「でも怖いし、嫌だ。嫌な思いをしたくない。」

玄龍さん「わかってないなあ。これが究極の愛の本質なんだよ。子どもたちがわざわざお化け屋敷に、怖い怖いと言って入って楽しむようなもんだよ。俺たちはこの地獄と天国の両方を経験しにきたんだ。無限の闇の先に無限に広がる光があるんだ。俺はその無限の光を一緒に見たいんだよ。」

私「無限の闇と無限の光は対極で、同じということか。」

玄龍さん「そう。怖い怖い。と言いながら、その底無しの愛を受け取る勇氣はある?」

私「・・・怖いけど、受け取りたい。そのためにここまでやってきたんだから。でもめっちゃ怖いけど(笑)」

玄龍さん「怖くていいんだ。怖いことなんだから。次の展開を許可したら、これから何が起こるかわからないけど、その地獄は君が望んだ展開であり、ギフトなんだよ。だから抵抗している手を放して委ねるだけでいいんだ。」

私「うん。やってみる。怖いけど(笑)ところで、今誰からのメッセージ?」

玄龍さん「サナトクマラさんですよ。久しぶりに会いたかったでしょ?と言ってる(笑)」

私「うん。すごく会いたかった。いつもありがとう。」


一見悪い展開が起きることを、抵抗して望まないとは思う。
本当にわざわざ災いを招くようなことをするというわけではなくて、地獄をみることを許可できるかという内側の問題だ。その許可が降りた時に同時にに無限の闇と対局の無限の光を包含することになる。
光、天国だけが欲しいと望んでいるばかりでは、肝心な時に尻込みして、結局それは正義を振りかざすことになったりして、争いのタネを作る。

一見、良いことに思える行動なども、見方によっては愛のない行動だったりする。愛の本質とはもっと分かりにくくて深いもの。状況がネガティブに感じて苦しい時に受け取っている愛の本質に氣づくことができれば私たちはもっと自分を解放していけるんじゃないだろうか。

その先に無限の光の扉があるのだから。闇も光の一部であり、同じもの。
光と闇を統合する。それが、無条件の愛の実践なのかもしれない。

いつもありがとうございます。





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