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短編小説:心の景色 — 視点が創る愛と恋の哲学

僕と美里君はオフィスで静かな時間を過ごしていた。
普段は明るく気さくな美里君だが、今日はどこか不機嫌そうに見える。
そんな彼女の様子に気づき、何気なく声をかけることにした。

「美里君、ちょっと聞いてもいいかい?」

突然の問いに、少し驚いたような表情を浮かべながら、彼女は僕の方に視線を向ける。
「なんでしょうか?」

僕は微笑みながら、リラックスした姿勢で椅子に深く腰をかけた。
「横浜にはたくさんの坂があるけど、登り坂と下り坂って、どっちが多いと思う?」

唐突な質問に、彼女は眉をひそめ、少し考え込む。
彼女の額に皺が寄るのを見て、僕は思わず笑みを浮かべた。やがて、彼女が答えを出す。

「うーん、よく登っている気がするので…登り坂の方が多いんじゃないですか?」

僕はニヤリと笑い、彼女に軽く頷いた。
「ははは、よく登ってるから登り坂か。面白い答えだね。でも、実は正解は同じなんだよ。坂っていうのは、見る方向によって登り坂にも下り坂にもなるからね。」

彼女は少し首をかしげる。
「えっ?それって、なんか意味があるんですか?」

僕は少し真剣な表情を浮かべ、椅子に深く腰をかけながら、彼女に向かって優しく説明を始める。
「いいかい、物事は見る角度によって全然違って見えるんだ。さっきの坂の話もそう。上から見れば下り坂、下から見れば登り坂だろう?同じ出来事でも、立場や考え方で解釈が変わるんだよ。」

彼女はふむ、と軽く頷いたものの、まだ少し釈然としない様子だ。
彼女の瞳には疑問の色が浮かんでいる。
「そういうものですかね…」

僕はさらに話を続ける。
「美里君、新聞は読んでいるかい?」

「いえ、新聞は読まないです。ニュースはアプリで見てますけど。」

「そうか。例えばね、産経新聞と朝日新聞って、同じ出来事を報道しても視点が全然違うんだ。事実は変わらないんだけど、どう捉えるかで賛成にも反対にもなる。だから、世の中ってそんなふうに見方が変わることがよくあるんだよ。」

その説明を聞いて、少しずつ彼女の興味は深まっていく。
「確かに、そういうことってありますよね。でも…」

彼女はふと顔を曇らせ、ため息をついた。「実は、昨日彼氏と喧嘩してしまって…記念日を忘れられてしまって…一緒にいることが当たり前に思われてしまっているようでなんだか悲しくなって、夜泣いちゃったんです。」

僕は少し驚いたように眉を上げた。
彼女の声には、心の痛みが込められている。
「それは辛かったね。でも、美里君、記念日を忘れるのは確かに彼の失敗かもしれないけど、当たり前の存在になっているっていうのは、悪いことじゃないんだよ。」

「当たり前の存在が大事…ってことですか?」彼女は少し戸惑った様子で尋ねる。

僕はゆっくりと頷いた。
「そうさ。たとえば、家族を思い出してごらん。家族はずっとそばにいて、存在が当たり前だと思ってしまうけど、それってすごく安心感があるだろう?だからこそ、そういう存在になれるのは本当に特別なんだ。」

その言葉を聞いて、彼女は一瞬、自分の家族のことを思い出したようだった。
小さい頃からそばにいてくれた家族の存在が、いつも彼女を支えてくれていたことに気づいたのだろう。

「彼氏にとって、私がそんな安心感のある存在になれているんだとしたら…嬉しいですね。」彼女は、少しほっとした表情でそう言った。

僕は微笑みながら頷いた。
「そうだよ。もちろん、記念日を忘れるのは彼が反省すべきことだけど、喧嘩も二人の関係を深めるきっかけになることもある。彼氏が謝ったら、素直に許してあげることも大事だよ。」

彼女は少し考えた後、微笑んでうなずく。
「そうかもしれませんね。でも、次は絶対に忘れてほしくないです!」

その強い言葉に、僕は笑いながら「それは間違いないな」と返す。

「美里君、彼氏の話しが出たついでに、せっかくだからもう一つ、少し哲学的な話をしてもいいかい?」

彼女は驚きつつも興味を引かれ、微笑んで答える。
「もちろんです。部長がどんな話をするのか、興味あります。」

僕は少し椅子に寄りかかりながら、目を細める。
「愛と恋の違いって、考えたことあるかい?」

「愛と恋の違いですか…」彼女は少し考え込む。
「どちらも大切な感情ですけど、違いって何なんでしょうね…?」

僕はゆっくりと話を続ける。
「愛は『想うこと』、恋は『思うこと』だと僕は考えている。美里君、この違いがわかるかい?」

「想うことと、思うこと…?」彼女は少し首をかしげる。

僕はうなずきながら説明を始める。
「恋はね、好きだという自分の気持ちが先行しているんだ。自分の感情が主役で、相手がどう感じているかよりも、自分がどう思っているかが中心になる。いわば、自分の心に満足するための感情だ。」

彼女は真剣な表情で聞き入る。
「なるほど…」

「一方で、愛は違うんだ。」僕は少し微笑んで続ける。
「愛は、相手を思いやること。自分がどう感じるかではなく、相手の気持ちを考えて、相手を大切にしようとする感情なんだよ。恋は一時的な熱情だけど、愛はもっと深くて、持続するものだ。」

彼女は静かに頷いた。
「愛って、相手を思う分だけ、自分の感情が試されるものなんですね…」

「この話がどこまで本当かはわからないけど、夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳したという逸話があるんだ。知っているかい?」

彼女は目を輝かせた。
「あ、それ聞いたことあります!でも、どうしてそんなふうに訳したんですか?」

僕は微笑みながら頷いた。
「それはね、とても日本的で美しい表現なんだ。『I love you』をただ単に『愛してる』と言うんじゃなくて、『月が綺麗ですね』という言葉で、自分の気持ちをさりげなく伝える。この表現は、二人が同じ方向を見ていることを象徴しているんだよ。」

「同じ方向を見ている…」彼女はその言葉を噛みしめるように呟く。

僕はさらに説明を続ける。
「ただお互いを見つめ合うだけじゃなく、共に何か美しいもの、例えば月のように同じ景色を一緒に見ていること。それが愛の本質なんだ。『月が綺麗ですね』という言葉には、相手との共有の時間や感覚、そしてお互いの存在を感じる深い意味が込められているんだよ。」

彼女はしばらく黙って、夜空に浮かぶ月を想像しながら考え込んでいるようだ。
「つまり、『愛してる』って言葉だけじゃなく、何かを一緒に感じて、共有していることが大切なんですね。」

僕はうなずいた。
「そうさ。恋は自分の気持ちが中心になるけど、愛は相手との時間や感覚を共有し、一緒に同じ方向を見つめること。サン=テグジュペリの言葉の通り、『お互いを見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見つめること』が愛なんだよ。」

その言葉に、彼女は深く考えさせられたように頷いた。
「月が綺麗ですね、か…。なんだか、とても日本的で優しい表現ですね。彼との関係も、ただお互いを見つめるだけじゃなく、もっと一緒に何かを見て、共有できるようになりたいです。」

僕は満足そうに微笑んだ。
「そうだね、美里君。その気持ちを大切にしていけば、きっと彼との関係もより深く、意味のあるものになるはずだよ。」

険しい表情をしていた美里君も、ようやく笑顔を取り戻し、二人はしばらくの沈黙の後、顔を見合わせて笑い合った。

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