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短編小説:君が教えてくれたこと

初めて君と出会ったのは、薄暗い居酒屋のざわめきの中だった。
ビールの泡がグラスにしぶき、熱気に満ちたその場で、君は料理に箸をつける前に、静かに両手を合わせて「いただきます」と言った。

その仕草に、僕は一瞬、時間が止まったような感覚を覚えた。
まるで雑多な現実の中に、一瞬だけ別の世界が開けたかのような、そんな神聖な響きが君の言葉から漂っていた。

それから君と付き合うようになり、気づいたのだ。
どこであろうと、君はいつも同じように両手を合わせ、静かに「いただきます」と呟く。
自分で作った質素な食事の前でも、実家でのぬくもりに満ちた食卓でも、安居酒屋の喧騒の中でも、ファミレスの明るい照明の下でも。

僕がその理由を聞いたとき、君は不思議そうに微笑み、こう答えた。「命をいただくことに、料理を作ってくれた人に感謝しているんだよ」と。
その言葉に、僕はどこか胸の奥が温かくなるのを感じた。
そうやって「当たり前」のことを、誰よりも大切にしている君が愛おしかった。

君は家に入る時も必ず靴を揃える。
扉を開け、ふと後ろを振り返り、丁寧に並べ直すその姿。
僕はそんな君の背中に、ある種の美しさを見出していた。
それは決して派手でも、華やかでもない。
しかし、心を捉えて離さない、どこか厳かで、静かな美しさだった。

ある時、車通りのない交差点で、僕が信号を無視して渡ろうとした時も、君は小さく首を振り、信号が青になるのをじっと待っていた。
「どうして?」と僕が尋ねると、君は笑って答えた。「お天道様が見てるから」と。
その笑顔が、どんな景色よりも輝いて見えた。

君はいつもそうだった。
小さなこと、誰もが見過ごすような当たり前のことを、丁寧に、そして敬意を持って行う。
君にとっては当たり前のことかもしれない。
でも、その「当たり前」を大切にする姿が、僕にとっては特別だった。

ある日、山下公園を歩いていた時のこと。
観光客が無造作にゴミを捨てた。
それを見た君は、何も言わず、ただ静かにゴミを拾い、近くのコンビニまで持っていった。
誰に強制されるわけでもなく、見せびらかすわけでもなく。
そんな君の姿に、僕はまた心を奪われた。

「命よりも神に感謝して、土足で家に上がるから、大切なことを見失っているのかもしれないね」と、ある日君はふと呟いた。
どこか寂しげな声だった。その言葉には、宗教や慣習への批判などではなく、ただ深い悲しみが滲んでいた。
君が何を言おうとしていたのか、その時ははっきりとはわからなかった。
でも、その一言が胸に深く残った。

日本という国は、清潔だと多くの人が言う。
それは長い歴史の中で培われた文化の結晶なのだろう。
君の姿は、その文化そのものを映し出しているのかもしれない。
手を合わせ、靴を揃え、ゴミを拾い、日々の営みの中で何か大切なものを守り続ける君の姿に、僕はいつも心を打たれる。

今日も君は、食事の前に両手を合わせた。穏やかな微笑みを浮かべて、静かにこう言う。

「いただきます。」

その言葉に込められた深い感謝と敬意が、僕の心に響き続ける。
君が教えてくれた「当たり前」の美しさを、僕は忘れない。

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