二宮忠八のこと(2)
前回、二宮忠八について書いたが、あの時はまだ吉村昭の「虹の翼」の前半しか読んでいなかった。その後、読了して二宮忠八の生涯の全体像がわかった。五百ページを超える大作だが、吉村昭の歴史的事象の描写は微に入り細を穿ちどこまでも詳しく書かれていて圧倒された。吉村昭は、二宮忠八の生涯を描きつつ、当時の日本の政情や日清日露戦争の様子、また後に忠八が関わることになる製薬業界の変遷、世界の飛行機発展についても実に細かく描いているのである。歴史資料としても貴重なものだと思う。
特に、二宮忠八の無念さは読んでいてやるせなくなる。彼は幼少の頃から秀でた才能の萌芽を見せた天才的な人物だった。しかし、裕福な商家に生まれるも家が没落したため中学にも行けず貧乏暮らしを余儀なくされ、それでも、飛行器制作に情熱を捧げる姿は胸に迫ってくるものがある。
愛媛県の八幡浜という町(忠八の時代は八幡浜浦)は私が中学生だった昭和三十年代の後半でも閉鎖的で封建的な田舎町だった。
当時、八幡浜に一軒だけあった映画館に中学生は立ち入り禁止だったため、「ウエストサイド物語」を見に松山まで行った記憶がある。中学校の校則の厳しさはほとんど笑い話だ。先生たちは、毎朝校門のところに立って登校してくる生徒たちをチェックした。スカート丈を定規で測るのはもちろんのこと、突然の雨で母親に花柄の傘を借りてきた女子生徒から傘を取り上げ(黒い傘以外は禁止されていた)、レインコートを着てきた生徒からはレインコートを剥ぎ取り、遠足に新しい靴を買ってもらった生徒からは新しい靴を取りあげた。自宅の向かいにある銭湯に行く際に制服でなく私服で行ったという理由で風紀違反切符を渡された生徒もいた。
忘れ物、遅刻、風紀違反を三回繰り返すと、担任、風紀係の先生、教頭先生のところに出頭してお叱りを受けねばならず、これが度重なると成績にも影響した。学級委員や生徒会の会長は男子のみで女子は副の地位しか与えられなかった。
八幡浜の名誉のために補足しておくと、そんな状況下ではあったけれど、生徒たちは厳しい校則をすり抜けて、十分楽しい学校生活を送っていた。私自身、中学三年の夏に東京に帰ってきてからより、愛媛での暮らしのほうがずっと楽しく幸せだった。
ただ、こうした保守的な気風は、忠八の生きた時代は更に過酷であったろうと想像できる。おそらく忠八は子どもの頃から人生に理不尽さは付き物であると学んでいたのだろうと思う。そうであるにしても、忠八の忍耐と努力、そして度重なる不運にもめげず自らの目標を見失わずどこまでも貫こうとする姿勢には圧倒される。日本人の気質として、目新しいものには懐疑の目を向け、奇抜な行動や奇抜な発想には眉をしかめて排除する傾向は今も色濃く残っている。もちろん、「虹の翼」に描かれた二宮忠八は、小説上のキャラクターではあるのだが、資料を基に作られた小説でもあるので、かなり事実に近いのではないかと思われる。
前回は、忠八の飛行器が日の目を見ることはなかったと書いたが、「虹の翼」の後半では、忠八の飛行器は後に軍上層部にも認められるようになったことが書かれている。特に、忠八の上申書をにべもなく突っ返した長岡外史が臨時軍用気球研究会の初代所長になるという皮肉な経緯もあり、後に長岡外史は忠八の功績を理解し彼を訪ねて謝罪している。
それだけでなく、忠八は勲章を授与され新聞にも載り、また戦前の教科書にも世界に先駆けて飛行機を発明した人物として載っていたというから、二宮忠八の功績が封じられたのは戦後になってからのようだ。なぜ戦後になって彼の功績が教科書から消えたかについては不明である。
また「虹の翼」には二宮忠八に先駆けて江戸時代中期(十八世紀)から明治に至るまで空を飛ぶ情熱に駆られた人々のことが詳細に語られている。
たとえば、表具師幸吉(1757ー1847)。彼は備前国児島郡に生まれ、やはり幼少期から好奇心旺盛かつ頭脳明晰であったようだ。鳥が空を飛ぶことに興味を抱き、人間も空を飛べないかと考え、竹と紙で大きな翼を作り身体にくくりつけて橋の上から飛翔を試みた。しかし飛ぶには至らず落下した。その後も改良を重ね、屋根から飛び降りて五間(約九m)ほど滑空するまでになったが、それを見た人々が、幸吉を鳥の姿をした妖怪ではないかと恐れ、幸吉は捕まり牢に入れられ処払いになった。
また、同じ頃、琉球にも空を飛ぶことを試みた人物がいた。安里周祥という人で、花火師の家に生まれた。彼は弓の原理を用いて空を飛ぶことを試み、「飛び安里」と呼ばれたが、彼が設計した飛翔器具の設計図は残念なことに(非常に残念なことに)無知な末裔によって焼却されてしまった。他にも天明(1781ー1789)の頃、三河の国で櫓の上から翼を付けて飛び降りた人や、天保時代(1831―1845)に同じく飛翔を試みた人など、かなり多くの人が空を飛ぶ試みをしたことが「虹の翼」には書かれている。しかし、その多くは周囲の理解を得ることなく捕らえられ、中には斬首刑になった人さえいたという。
外国に目を移せば、レオナルド・ダ・ヴィンチの時代から人々は空を飛ぶ試みを続けてきた。1505年、レオナルドは「鳥の飛翔について」という論文を書き、その中で「鳥は科学の法則に従って動いている機械であり、人間もこの機械と同じものを作ることができるはずだ」と書いて、人間が空を飛ぶ可能性に言及している。しかしその後、イタリアのジョバンニ・アルフォンソ・ボレッリが鳥の筋肉と人間の筋肉の違いに気づき、翼を羽ばたかせて空を飛ぶことは不可能であると結論付けた。その後、人々は空を飛ぶのではなく、上昇する方向に舵を切り、1783年にフランスのモンゴルフィエ兄弟は熱気球を発明している。さらに、モンゴルフィエ兄弟は気球に水素を詰めて飛ぶことを考案。人類史上初めて人間が気球に乗って空を飛ぶことに成功した。その後、1785年に、フランス人のブランシャールが気球に舵と翅を付ける工夫をしてドーヴァー海峡を超えた。しかし気球が風に流されやすい欠点は残っており、それを克服したのがブラジル人の実業家サントス・デュモンだった。彼は気球にガソリンエンジンをつける飛行船を発明。パリのエッフェル塔の周囲を周回したという。
グライダーの原理で空を飛ぼうとしたのが、リリエンタール兄弟だった。彼らもまた鳥の飛翔を観察して、翼をつくり、350mの滑空に成功している。さらに彼らはエンジン付きのグライダーも発明したのだが、1896年、兄のオットー・リリエンタールは墜落事故で亡くなっている。
こうして、人々の空を飛ぶことへのあこがれは、気球から飛行船、グライダーへと進化していったのだが、実際に人を乗せて目的地まで運ぶことのできる機械はまだ発明されていなかった。それは二十世紀を待たなくてはならなかった。
この間、忠八はカラスの滑空を観察し、また水切りをする際の石を見て、石が跳ねあがるのは水の抵抗を受けるからで、抵抗というものが物体を上昇させる作用を持つことに気づく。さらに甲虫や玉虫の飛行を研究し、甲虫と玉虫の羽の仕組みの違いにも言及している。両者とも上の羽を広げて揚力を得るのは同じだが、甲虫の下羽は上の硬い羽よりはるかに大きい。しかし玉虫の下羽は同じ大きさで、そのため折りたたまれることもない。
「玉虫は飛ぶときには硬翼(上の羽)を張って、空中で空気に抵抗し、軟翼は下から硬翼を押し上げるようにしている」
こうして、彼は玉虫型の人を乗せて空を飛ぶ機械を考案し、それを「飛行器」と名付けた。まずは模型飛行器として、カラス型の飛行器を考案した。竹とんぼを参考にしてプロペラを取り付け、動力として医療用のゴムを使用。ついに模型のカラス型飛行器を完成させたのである。
明治24年(1891年)4月29日、丸亀練兵場で忠八の造ったカラス型模型飛行器が空を飛んだ。この時は五間(約九メートル)飛んだという。日本で初めて模型飛行機が空を飛んだ瞬間である。
しかし、人を乗せて飛ぶ玉虫型飛行器を実際に制作するには莫大な費用がかかる。動力(ガソリンエンジン)も当時では考えられないほど高額で、とても一介の看護兵に賄える額ではなかった。そこで軍の上層部に再三上申書を出すのだが却下されてしまう。
軍に頼るのは無理だと気づいた忠八は、自らの力で飛行器制作の資金を調達するため軍を退官する。薬学の知識があったことから大日本製薬株式会社に入社し、業績を上げて支社長にまで昇進するも資金を賄えず、スポンサーも現れず、長い年月の後にようやく飛行器制作の目処が立ったところで、ライト兄弟に先を越されてしまうのだ。
しかし、忠八の玉虫型飛行器はライト兄弟の複葉機より勝った点が幾つかあったという。たとえば、玉虫型飛行器にはライト兄弟の複葉機フライヤー号にはなかった車輪が備えつけられていた。もしも忠八がその事実を知っていたなら、飛行器制作を断念することはなかったかもしれない。
多くの「もしも」が重なった末、二宮忠八はやがて飛行機の歴史からも姿を消すのだが、歴史に埋もれたこうした偉人は世界じゅうに多く存在したのだろうと思う。
1903年にライト兄弟が人類で初めて複葉機での飛行実験に成功して以来、アメリカの航空機の発展はめざましく、1927年にはリンドバーグが大西洋を無着陸単独飛行横断に成功している。翌1928年には女性パイロットのアメリア・イヤハートが大西洋を横断している(搭乗者は三人)。そして、1932年、アメリアはついに単独で大西洋単独横断飛行に成功する。さらに1937年、世界一周飛行を試みるが、太平洋上で消息を絶ってしまう。政府は多額の費用をかけてアメリアの捜索に乗り出したが機体も彼女も同乗していたナビゲーターのフレッド・ヌーナンも発見されることはなかった。
アメリア・イヤハート(1897-1937)は女性パイロットの先駆者として女性パイロット養成に努め、全米の女性たちに勇気と希望を与えた人物として名を残している。映画「アメリア・永遠の翼」ではヒラリー・スワンクがアメリアを演じているが、写真に残る実物のアメリアとよく似ている。アメリアを題材とした映画や小説はたくさんあるようだ。
同時期、アメリカの大富豪ハワード・ヒューズ(1905-1976)は金に飽かせてヒューズ・エアクラフト社を設立。1937年には彼自らの操縦によりアメリカ大陸を七時間半で横断するという記録を樹立している。彼はまた映画にも関心を抱き、巨額の費用を投じ三年の月日をかけて1930年に「地獄の天使」という映画を完成させている。これは第一次世界大戦のパイロットたちを描いた映画で、たくさんの複葉機がトンボの群れのように空を飛び交う映像は圧巻である。レオナルド・ディカプリオ主演の映画「アビエイター」にはハワード・ヒューズの破天荒な生涯が描かれている。
二宮忠八に戻ろう。彼は長い年月と私財を投じてようやく試作したたまむし型飛行器を飛ばすことなく、ライト兄弟に先を越されてしまう。ライト兄弟の飛行実験成功の知らせを聞いた忠八はハンマーで飛行器を叩き壊し、以後二度と飛行器制作に携わろうとはしなかった。彼の無念さは想像にあまりある。
しかし、二宮忠八はただの飛行機オタクではなかった。彼の才能は様々な分野で発揮され、軍を退官後に入った製薬業界でも手腕を発揮して、製薬会社の取締役にまで昇進した。それだけではない。後に宮司の資格を得て、故郷八幡浜と名前の似ている京都八幡市に「飛行神社」を建設した。初期の飛行機は不安定で墜落事故が絶えなかった。彼は飛行機制作に情熱を燃やしたことから、彼らの死に対して責任を感じ、飛行機事故で亡くなった人々の御霊を供養するために飛行神社を建設したのだという。
晩年は平穏な暮らしを続け、七十歳で亡くなっている。
吉村昭の「虹の翼」には若い頃の忠八が「忠八凧」を制作して、新川の河原で挙げたことが書かれている。この本に度々登場する明治橋は、中学生の私が登校の際に毎日渡っていた橋でもある。橋のたもとには週に何度か風紀係の生徒が立ち、登校してくる生徒たちの風紀違反を取り締まっていた。そんな風ではあったけれど、私は毎日友人たちと楽しく過ごしていた。当時のクラスメイトたちの顔も名前もはっきり記憶している。八幡浜は今も私の第二の故郷と言ってもいい場所である。Googleearthで見た八幡浜に当時の面影はほとんどなかったが、今もまだ田舎の街であることに変わりはない。
八幡浜では毎年四月二十九日(忠八がからす型模型飛行器を飛ばした日)に、二宮忠八を記念して模型飛行機を飛ばすお祭りが開催されているという。一度訪ねてみたいと思う。
(つづく)
(注)
「凧の世界史6」(ネット)より転載。
「忠八の製作していた機体は重量が重過ぎるため、完成しても飛べたかは長らく疑問視されていたものの、理論的には正しい事は現在では認められています。平成3年 10 月の飛行実験では、玉虫型飛行器の実物大の復元模型が作製され、愛媛県八幡浜市保存されていたものを使用して、エンジンを取り付け、実際に人を乗せて飛べるかのテストが行われ、この時、1メートル浮き上がり、200 メートル飛び、忠八の飛行器は動力さえあれば人を乗せて飛ぶことができたことが証明されました。その様子は「夢の 翼・世界航空史のパイオニア二宮忠八」というタイトルで平成 4年1月 13 日にNHKスペシャルとして放映されました。」
(注)一方、玉虫型飛行器はそのままでは空を飛べなかったとする論評も幾つかある。しかし忠八なら改良を加えてすぐに実用性のある飛行器を造ることができただろうとも言われている。
(注)成田空港そばにある航空科学博物館には玉虫型飛行器の実物大模型が展示されている。また、香川県まんのう町には二宮忠八記念館があり、彼の飛行器の模型が展示されている。行ってみたい。