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「フジコ・ヘミングの時間」


(2024年4月に永眠したフジコ・ヘミングに敬意を表して、少し古いエッセイですがここに載せます。)

Netflixで配信中のドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」がとてもよかった。

フジコ・ヘミングと言えば、だれもが知っている世界的ピアニスト。テレビでも何度か紹介されたことがあるので、フジコ・ヘミングが成功するに至った経緯については大体知っていたけれど、あらためてドキュメンタリーを見ると、その生涯と才能は並外れたものであることがよくわかる。

 映画は、現在のフジコ・ヘミングを追いながら、過去のエピソードを織り交ぜて、現在と過去を行き来しつつフジコの生涯に迫る。

 全編に流れるフジコ・ヘミングのピアノが美しい。

 八十歳をすでに超えた彼女は、見た目はお婆さんだが、まるで妖精のよう。独特のスタイル、髪型も衣装もユニークで、そこにいるだけで存在感が際立つ人物である。 

「私、だけど本当に十六歳くらいの気分よ・・十六歳以上になりたくないと思うし、時々自分の年齢を考えるとゾッとしちゃって、もうどうしたらいいだろうと思っちゃう・・」

 驚いたのは、彼女の活動範囲の広さだ。最初に紹介されるのは、パリのアパルトマンで、そこを拠点としつつ、東京、パリ、アメリカ、ドイツなど世界各地に家をもっていて、演奏活動で世界を飛び回るとき、それぞれの家に滞在するというライフスタイルを持つ。

 彼女の家には猫や犬がたくさんいる。留守を預かる友人たちも大勢いて、決して孤独ではないようだが、やはり孤独の影はつきまとう。


 フジコ・ヘミングはスウェーデン人の父と日本人の母の間に生まれた。父は彼女が幼い頃に去り、フジコと弟の二人を育てたのはピアニストの母だった。母はフジコをピアニストにするために厳しく育てた。フジコは東京芸術大学に入学し、17歳でピアニストとしてデビュー。しかし、ドイツ留学の直前になって国籍がないことが判明。第二次世界大戦の混乱の中で、長い間無国籍だったのだ。駐日ドイツ大使の助力で何とかドイツに留学し、遅咲きの演奏家としてスタートした。

 ところが、彼女自身のキャリアを賭けた重要なリサイタルの直前に風邪をこじらせて聴力を失ってしまう。療養の末、左耳の聴力は40%ほど回復したものの、フジコは長らく失意の中で過ごし、日本に帰国する・・。

 ピアニストになる夢をあきらめかけていたある日、予期せぬことが起きた。フジコの評判をききつけたテレビ局が彼女を番組で紹介することになったのだ。

 こうして、フジコ・ヘミングは、文字通り一夜にして有名人になる。CDアルバムが二百万枚超えを記録するなど、クラシック音楽界では異例なことが続く。この時、フジコはすでに六十代も終わりにさしかかっていた。

 フジコ・ヘミングの生涯は苦難と波乱に満ちたものだが、音楽のために生まれてきたような人なので、彼女の唯一の伴侶はピアノ。八十歳を超えた今も毎日四時間の練習は欠かさず、世界各地を飛び歩き、精力的に活動している・・。


 このドキュメンタリーを見て、私は、フジコ・ヘミングって

「まれびと」

なんじゃないかと思った。フジコ・ヘミングは、この世に何かをもたらすために、他界から派遣された天使、あるいは精霊のような人なのではないか・・。 

「まれびと」というのは民俗学者折口信夫の用語で、Wikipediaによると、

「時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的な存在・・(中略)やがて外部から来訪する旅人たちも「まれびと」として扱われることになった・・」

「まれびと」は共同体の外側からやってきて、内側にいる人たちに強烈な体験を与え、揺さぶりをかけたり衝撃を与えたりして共同体の絆を深める役割を果たす。そして、他界(常世)への通路を開く。日本各地に残っている神々の踊りは、芸能の初期形態でもあるという。

 コロナ禍の今、日本じゅうで祭りや祭祀、典礼などが相次いで中止されている。人々は常世のことなど忘れてひたすら日常に埋没しつつ、見えないウイルスを恐れて暮らしている。

 祭りばかりではない。音楽や芸術活動など、生命に直接かかわりのない行動を自粛する傾向が相次ぎ、それに携わる人々が存続の危機を迎えている。それは、私たちの世界や精神に対する大きな脅威であるはずなのだが、それが見えにくくなっている。そのことが一番怖いと思う。 


 もう一つ、「まれびと」について、私自身の記憶を話そうと思う。

 子どもの頃、私は父の仕事の関係で東京から関西へ引っ越した。山奥の小学校では、東京から来たということで珍しがられ、もてはやされたが、一方でひどくいじめられもした。二年後に再び四国の海辺の町に引っ越したが、そこでも同様の扱いを受けた。やがて友だちもでき、田舎の生活になじんでいったものの、最後まで、私は彼らの一員としては認めてもらえなかった気がする。何しろ私の母は東京の下町生まれで、決して田舎の生活になじもうとしない人だったので、私にも東京の服を着せ、東京の言葉でしゃべることを強いたからである。

 言ってみれば、私は彼らにとっての「まれびと」だったのかもしれない。東京という他界からやってきて、見たことのない服をきて、聞いたことのない言葉をしゃべり、やがて去っていくに違いない女の子を、彼らはどう扱ったらよいかわからなかったのだ。

 まれびとは共同体の一員にはなれない。共同体は、まれびとが災いをもたらさないように祭りあげ、あるいは排斥する。まれびとは孤独である。孤独であるがゆえに、自分は何者なのか、ということを常に問い続ける。

 フジコ・ヘミングと私自身を比べるのはおこがましいにもほどがあるけれど、誤解を恐れずにいうなら、フジコ・ヘミングの音楽は、こうした「まれびと」の孤独と自分自身への問いかけの集大成なのではないかと思うのだ。

 一方で、まれびとは世界を照らす光にもなりうる。世界が暗いなら、まれびとの類稀な力で明るく照らす、あるいは、共同体がまれびとを排斥するために一致団結することで明るさを取り戻す・・。

 フジコ・ヘミングは、その苦難と波乱の生涯を通して、音楽を磨きあげ、自身の魂を磨きあげ、そうすることによって、世界を照らす存在になったのだと思う。だからこそ、彼女のピアノは、人々を癒し、光の方向に導いてくれる大きな力を持つのだろう。


 フジコ・ヘミングは自身の「ラ・カンパネラ」に誇りを持っていると語り、こう続ける。

「なぜかっていうと、精神面が全部出ちゃう。いくらごまかそうと思っても、ああいう死に物狂いで弾く曲だから・・日々の行いと精神が全部出ちゃう。わかる人にはわかる、わかんない人にはみんな同じに聞こえる・・」

 映画の終わりの方で演奏される「ラ・カンパネラ」は圧巻である。聞いているうちに魂が透き通り光に満たされていくのを感じることができる。

 一人の人間の力はこれほどまでに偉大である、ということを教えてくれる貴重なドキュメンタリーでもある。(2020年9月記)






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