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わくらば


 わくらば

仙台の連坊小路に居を構えて六年になる。「れんぼうこうじ」と読む。この地名は日本でもここにしかない。
名の由来は八世紀半ば頃、聖武の御代まで遡る。国家鎮護のために全国に建立された国分寺の一つである「陸奥国分寺」。その門前には、道沿いに二十四坊もの塔頭が立ち並んでおり、坊が連なる小路ということで連坊小路である。聖武天皇勅願により造立された東大寺の盧舎那大仏は全身に金箔を纏っていた。使用された黄金のほとんどは陸奥から出たものであって、それを知ると、少し前まで化外であった地に建立された寺の門前に、多数の塔頭が居並ぶ興隆も少しく合点がいく。

 もともと生家のあった場所は同じく仙台の錦町というところだった。藩政期には長丁といい、城下の鬼門を護る仙台東照宮の参道、宮町通りの西側に位置している。連坊はそこから仙台駅を挟んでまっすぐ南に線を引いた辺り。青葉城からの距離はほぼ同じで、同心円上に位置している。連坊小路の拙宅は四方を寺に囲まれている。そもそもこの土地自体もとは寺社の敷地であった。北に曹洞宗の保寿寺、西には浄土宗の常念寺、南には二寺並んでおり曹洞宗皎林寺と真言宗智山派の満福寺。庭からは皎林寺の森と満福寺の屋根が見える。寺院に囲まれているといえば聞こえがいいが、要は周りは全て墓だということだ。 気味悪がる人もいるだろうが、これは裏を返せば大きな建物が建つ心配がほとんど無いということでもある。仙台駅から程ない場所にもかかわらず緑と静寂に恵まれているのはそのお陰であって、物事にはなんでも理由がある。ちなみにここらに寺院が集結していることにも地形的な独特の理由があるが、それはここでは述べない。

 なにはさて、その取り囲む寺の一つ、満福寺は荒町通りという藩政期には奥州街道と呼ばれていた通りに面している。荒町は政宗が城を移す度に付き従ってきた町人のための町で、政宗も憎からず思い、厚遇していた。麹の専売権が与えられていたというからかなりの信頼を置いていたのだろう。味噌醤油そして日本酒、みりん等、麹なしでは日々の暮らしもままならない時代の話である。仙台の街づくりをするために政宗が呼び寄せた近江商人である八木家も荒町に土地を与えられて味噌麹屋として財を成した。仙台城下の入り口ということもあって往時は奥州一の繁華街であった。この寺はその東の端の路面に参道を出している。

しかし、満福寺と言っても仙台の人はおそらく分からない。

いや、実は近隣の人も、どの寺のことか分からない人も多い。「荒町の毘沙門さん」と言った方が通りがいいのである。満福寺は毘沙門天をお祀りする社の別当寺である。運慶作といわれる毘沙門像は奥州藤原氏から流れてきた。像は火災に遭い表面が炭化して真っ黒であるが、その異形がまたえも言われぬ迫力を醸し出している。近隣住民のお祭りといえば毘沙門様のお祭りだ。うちもそうである。これもまた何かのご縁と地域住民として大事にしたい。

 最近は日本文化、とりわけ能楽について考えを巡らす機会がとても増えている。気づけば能楽沼に足首くらいは浸っている。clubhouseという音声SNSでの有難い出会いが契機となった。ここで私が小文を書かせていただくことになったのもそうだ。
 金春流の御宗家姉弟や博識な大鼓方の先生、人間国宝である小鼓方の先生、そして日本文化や能楽をこよなく愛する職人さんやその他日本文化を愛する皆様との交流が私の心を突っついた。
ロルフィングを学ばれたソマティックワーカーであり能楽師である安田登氏や哲学者の梅原猛氏の著書を読んでいたので多少の下地はあったが、自分が語るために踏み込もうとは思わなかった。梅原氏の能楽系の書籍とはそこまで親しまなかったのである。
しかし、夜毎、お話を聞きつつ調べれば調べるほどに、能楽、猿楽とは日本文化、日本とは何かを知る上では絶対に避けることはできないということを知った。さらには、一人でも多くの人間が親しみ、語るべきものだと強く感じた。
仕事柄、最初に独特なものを感じたのは、やはりその身体である。

 この世ならぬモノを演じるシテ方はほとんどの演目において面をつけることになる。魂を持っているかの如き異様を放つ能面。能面師のみならず能楽師自ら打つ人もいる。能面を実際につけてみて気づくことは、その視界の狭さである。わずか5mm程度の穴二つから世界を覗いている。クライマックスに訪れる舞を舞うのは主にシテ方で、それは魂の昇華過程のアナロジーだ。舞台の上で一番激しい動きを行うことが多いシテ方であるにも関わらず、その視覚がひときわ強い制限を受けているというところに興味を持った。なぜ視覚を制限するのか、それは〝こころ〟に関係している。身体を研ぎ澄まし〝こころ〟を顕わすためではなかったか。

 形態発生学を詩的哲学のように紡いだ三木成夫は、人体を植物的器官と動物的器官に分けた。植物的器官とは臓腑のことで、自ら移動することは無い代わりに「日月星辰」のような「遠い感覚」を受け止めている器官である。いってみれば宇宙のリズムを感受することで、成長と結実、食と性の波を作り出している。これはまさに植物のあり様に近い。人間をはじめとする動物は、いながらにして栄養を生み出せる光合成能を喪う代わりに、移動する能力を得た。すなわち、筋肉、骨格そして脳である。それらを動物的器官といった。筋骨格は分かるが、なぜ脳が動物的器官なのかといえば、栄養を得るために移動するには「思考」が不可欠だからということになる。その思考の契機としての視覚、嗅覚、聴覚といった身の回りの「近い感覚」を受け止めるための感覚器ができた。

 〝こころ〟は植物的器官である内臓から生まれると三木は言った。こういうと〝スプランクニゾマイ〟という言葉を思い出す人もいるだろう。「憐みを感じる」という意味のギリシャ語であり、その語源は「スプランクノン(はらわた)」から来ている。まさにこの言葉は「内臓をひきしぼられる」といった意味合いだ。聖書に登場するサマリア人達の持つ憐みの〝こころ〟の内包には内臓の感覚がある。また、昭和天皇も「終戦の勅諭」において、戦禍に死した多くの国民への痛切の〝こころ〟を「五内爲ニ裂ク」という言葉で表現された。「五内」とは内臓のことである。

〝思考〟とは「近い感覚」の批判分析の果てに紡ぎ出されるもので、〝こころ〟は遠きリズムを感じて溢れ出すものである。視覚は感覚の中でも脳による解析の依存度が高い。目から入る光学的情報は実に一割程度で、ほかは脳の思考の産物だ。つまり視覚の抑制は思考の抑制に繋がる。それによって、その所作には、より〝こころ〟が顕れる。その視点からみると、立ち姿の基本である〝構え〟にも構造的な理由を見出せる。人間が二足で安定しているには脳による筋肉の制御では間に合わない。これは拙著「身体構造力~日本人のからだと思考の関係論」(幻冬舎)に詳しく述べさせていただいたが、人の骨格には重力を感じとる平衡器の役割をしている場所が何点かある。その上で最重要な場所が仙腸関節だ。ここにしっかりとした面圧がかかっていることでベアリング機構が働き意識することなく立っていることができる。〝構え〟はまさにそれを可能にするものだ。また、顎関節は上半身の姿勢制御に重要な役割を果たしている。頭蓋骨からぶら下げられた下顎の骨が、ふりこの役割をしているのである。能面は顔の大きさよりやや小さく、顎の動きがよく見える様に作られている。これは謡のしやすさということもさりながら、顎関節の動きを自由にすることにより、その平衡器としての役割を最大限に発揮させようとするものなのではないかと思う。地球上にいる生きとし生けるもの全てに共通して作用する力である重力を素直に感じ得る身体は、余計な思考を省くことができる。その身体は、より〝こころ〟を顕しうる。

 花伝書にて「稽古は強かれ 情識はなかれ」と世阿弥は言った。自意識を捨て、しのごの考えずに稽古に励めということだ。それが〝こころ〟を咲かせる所作を作る。観賞と実践、そのどちらにもソマティックな癒しの地平がある。この芸能においては、その起こり、変容の過程、態様に日本文化とは何かというべきものを知るための豊潤な示唆がある。日本文化のタイムカプセルにして、タイムラインそのものである。
しみじみとこの不思議な邂逅に想いを馳せている。

 さて、ここでまた連坊小路の拙宅に戻り、もうしばらく私の妄想にお付き合い願いたい。

そもそも毘沙門天といえば秦河勝である。

聖徳太子の側近として寵愛をうけた河勝も太子の失脚と共に失意の末路を辿った。
播磨国に流れ着いた河勝は怨霊となり後に大荒大明神として祀られた。その本地仏はなんと「毘沙門天」といわれている。河勝は猿楽の祖であって、今世八十一を数える能楽金春流の初世でもある。ちなみに蛇足ながら、私は九星気学で三碧木星の生まれだが、その守護神もまた毘沙門天である。これも何かのお導きかと妄想を膨らませる。

なるほど、私は毘沙門様に呼ばれたのだ。

何を馬鹿なと言うなかれ、まぁこのくらい己に妄想を許す人間でなければ、このご時世、幸せに生き抜くことはできまい。
能楽大和四座の源流といえば奈良の桜井、桜井といえば日本浪漫派の保田与重郎が思い浮かぶ。日本浪漫派は学生のみぎりに少し齧ったが、時代が時代、他のことに気を取られ、いつしか記憶の片隅に追いやられてしまった。

 実は少しだけ所縁がある。その日本浪漫派の中心メンバーには文芸評論家の大物、亀井勝一郎がいる。私の祖母が函館亀井の出で、勝一郎とはいとこ同士であった。私がずるずると文学の道に入っていった時に父に教えられた。父は言った「これも何かのご縁だろうから仕方ない」。今思えば、大学を出てもまともな就職もせず研究生活に身を窶す倅への諦念を自分に言い聞かせていたのかもしれない。そして激励でもあっただろう。この道で行くのかと、ようやく親の心も踏ん切りがついた頃、不孝者の私は結局その道も捨て、治療家となった。ずっと放っておいた宿題を、齢五十にして私はやらされているのかもしれない。すべては偶然であるが、必然化するのは人間の意思である。そしてその意思は必ず身体に伴われている。二十年の治療家生活という身体にまつわる流れの中でこそ、邂逅したのだ。

 夏の季語に病葉(わくらば)というものがある。字面通り、穴が空いたり変色したりと病を得た葉のことで、それが最も青葉繁れる生命の絶頂期の季語となっている。病葉はまた老葉とも書く。害虫や菌に侵されずとも葉は老いる。あらかじめ決められた細胞分裂のエラー。きっかけは様々、そうなった葉は自ずから朽ちることを選ぶ。それは分裂が旺盛になればなるほど多くはなるが、若ければその誤謬は横溢に隠され、遠目では存在することはついぞない。隠された〝わくらば〟はやがて訪れる確実な死の予感である。加賀友禅に「虫食いの技法」というものがあって、夏の植物を描く際には、病葉も描かれる。それを以て「写実的」と評されるわけだが、描かれる理由はむろんそれだけではないだろう。日本人は溢れる生のさなかに死を見つけ、その兆しに生命の実相を感じた。
そして〝わくらば〟に己の存在を重ね合わせ、その存在にこころを寄せる。ある種の人々にとっては、ついにそれは生きる契機ともなる。

 ちなみに〝わくらば〟には、もうひとつ漢字があって「邂逅」と書く。主に歌語で、名詞ではなく形容動詞として使われるが、意味は「偶然に、たまさかに」である。偶然のめぐり合いはいつしか特別なめぐり合いに転じる。これは日本独特の感性だろう。そしてその感性は「数奇」や「侘び」を生む。

 生と死を循環と捉える考え方に「陰極まりて陽生ず」といった中庸的な美徳を思い浮かべる人もいるだろう。むろん儒道二教の影響も少なからずある。易経六十四卦に「地雷復」があって、陰が並んで一番下に一つの陽がある。それは冬至の卦である。陰が極まったその卦が表すものは「一陽来復」で、良卦の一つだ。冬至は太陽の死だが、その死は再生の兆しに他ならない。そしてこの反対に良卦ではないが、陽が極まって陰が生ずるものもある。動と静、生と死が一層の円環構造をなしている。確かに考え方としては似ている。ただ、少し違う部分がある。いや、むしろそれは決定的な差異だ。六十四卦には上下全てが陰、全てが陽という卦も用意されていて、それらは完全にして安定を表す吉卦であるとされるが、これはむしろ〝理念〟であって〝自然〟ではない。

 日本人は流れの中にこそ世界の全体を観る。そこには完全ではなく不完全がある。不完全の連続に完全を観るということだ。

 「荒び」(すさび)という言葉がある。人の手を離れた土地はいつしか植物が蔓延り、みるみるうちに荒れていき、荒む。これが自然ということだ。ただこの「荒び」はいつしか「遊び」に転じた。
植物を自由に遊ばせておくと、不意に奇妙な空白ができることがある。日当たりが悪いのか良すぎるのか、水捌けが悪いのか良すぎるのか、理由はどうにも分からない余白。それもまた遊びだ。遊びとは不完全なものをいい、〝ゆるみ〟や〝がた〟もまた遊びという。

日本文化の核には実は理念はない。敢えていうならば、そこには自然があり、遊びが作り出した余白がある。それは、たまさかに訪れる邂逅のようなもので、目指すべきものでなく、あらかじめ意識するものでもない。いわば、切り取りようのない流れそのものだ。迂闊の謗りを恐れずにいうと、これこそが空とでもいえるだろうか。

邂逅とは、空だ。そこには何もない。その意味を〝思考〟は紡ぎ出そうとするが、そこにあるのは、響き合った〝こころ〟と〝こころ〟の残響のようなものだ。

今年は寅年で、丑寅といえばその守本尊は虚空蔵菩薩であって、毘沙門天もまた寅を遣いとする仏神である。この邂逅もまた、妄想を遊ばせるには十分なものであろう。
(ソマティック心理学協会機関紙用に執筆)

(写真は加賀友禅の虫食いの技法による病葉)


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