明日雨が降らなかったら電話して
僕と雫が出会ったのは、大学二年生の頃だった。
たまたま同じ授業を履修していた僕らは、その授業でいつも隣合わせの席に座り、
授業中のディスカッションなどを通して、顔を合わせればちょっとした会話をするような仲になっていた。
忙しい大学生活が過ぎゆくのは早く、
気がつけばあっという間に学期末の試験が差し迫っていた。
試験の準備に追われながら、これが終わったら新宿の行きつけの店に飲みに行こうと約束した。
同学部だったはずなのに、
その授業があった学期が終わると学校で雫を見かけることはほとんどなくなってしまった。
それまでに僕たちは2回ほど、夏の宵に酒を呑み交わし、様々な物事について語った。
ある時には僕が当時傾倒していた、ドイツの哲学者について熱く話していたら、大学生の抽象的で曖昧な哲学話に腹が立ったのか店主に店を追い出されてしまった。
その夜も雨が降っていた。
僕たちは顔を見合わせて笑い、仕方ないからとあてもなく新宿の路上を缶ビール片手に歩き回り、気づけば綺麗な朝日が昇っていた。
彼女と再会したのは、
大学卒業から数年後のことだ。
JRの田端駅から家路に着こうとしていたところで、駅のプラットフォームに見知った顔を見つけて声をかけた。
雫はそのころある大企業に営業職として入社し、バリバリと仕事に精を出しキャリアを築いて行っているところだった。
その日も外回りの後だったらしい。
週末だったこともあり、
どちらからともなく居酒屋に落ち着くことになった。
僕たちは昔のように、
お互いのことをなにも知らずに、
お互いの最も重要な部分だけについて語っていた。
相手の話に時に深く共感し、時に理解できないと音をあげ、大抵はわかるっているふりをした。
賑やかだった店内が落ち着きだし、
そろそろ終電の時間を気にしだすといった時間になって雫が唐突にキャンプに行く話を切り出した。
「来週からゴールデンウィークでしょ?
だからキャンプ場が混み合う前のこの週末に行っておきたいの。
栃木の塩原の方に穴場なキャンプ場があってね、でもキャンプをしてる知り合いが誰も捕まらなくって。
明日雨が降らなかったら、一緒にキャンプに行ってくれない?」
「明日か、また急だね」
と言いながら少し考えて、僕は
「いいよ」と答えた。
明日の朝雨が降らなかったら電話するよ。
その夜そう約束して僕たちは別れた。
翌朝、4月らしくない冷気に目を覚ますと、外ではさぁーっと規則的な綺麗な音を立てて雨が降っていた。
僕はとにかく雫に電話することにした。
雨が降らなかったらと言って約束した日に雨が降ったことの可笑しさと悲しさをどうしても共有したかったのだ。
でも彼女は電話に出なかった。
何度目かの発信のあと、
僕は彼女とはもう2度と話すことはないだろうと悟った。語ることはおろか会うことさえもできないだろうと。
その後の人生で実際に彼女に出会うことはなかった。
ただ僕にできたのは、
この地球上に微かに残る彼女の息遣いをかろうじて感じることだけだった。
夜明けの紫や、虫の亡骸や、雨の残滓に。