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傲慢と善良
人が人を想うという個人的なことと、
結婚という社会的な制度の干渉。
ここにも個人と社会の対立がある。
他人を鏡として映して
その中に自分を見ること。
その自分を高く評価する自己愛。
自分に見合う人を"選ぶ"という態度にみえる傲慢さ。
他者から与えられる存在で、
その社会/家族/環境が与える外的な軸を
内的な基準として受け容れること。
その他者にとっての理想の枠の中で生きるという善良さ。
二つの軸が対立するのではなく、
傲慢さの中から善良さが現れ、
善良さの白が徐々に傲慢さの黒に変わって見えてくる。リバースの構造として傲慢さと善良さが描かれる。
ジェーン・オースティンの時代にあったのは、
上から下への高慢と
下から上への偏見だった。
それは結局のところ階級の問題に帰するものであり、個人と社会の対立では社会的要素が強い。
翻って現代では、
個人の価値に重きを置く傲慢さと、
社会的要求に応じる善良さが一個人の中に同居している、と作中では指摘される。
つまるところその傲慢さと善良さの二面性が婚姻の障害になっているという。
ただ、考えてみれば、これは婚姻関係に限った話ではないのではなかろうか。
現代における人と人の関係の基軸を表しているようにも思える。
他者に対して礼儀正しい一方で
満員電車で攻撃的になるどこかの民族にも似てる。
善良さは内に宿り、
傲慢さは外に向かうのだ。
そして自分が信ずるなにがしかの価値観に基づいて、
誰かにとって善良であろうとする態度は、
もしかしたら、他の誰かにとって傲慢なのかもしれない。
"君のことを思って言ってるんだよ"
みたいな偽善の皮を被った独善ではなく、
純粋なる心からの善良さが、誰かを傷つけて、耐えがたい悪臭を放つ傲慢さでもあり得るのかもしれない。
それでも鈍感な僕らは傲慢にも善良さを振りかざすのだろう。
でもそれはたぶん、
指摘されて、身につまされて、正さなくちゃいけないというものより、
受け容れないといけない類の性なのだろう。