悼む色は赤 「明くる朝には皆死体【前編】」
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ふと、アクルは深夜に目を醒ました。鈍い頭痛がする。窓の外で雨の降りしきる音が聞こえている。このところ夏の長雨が続いていた。クーラーの動作音が静かに響いている。ぼんやりとした視界にテレビやDVDプレーヤーの電源を繋いだ延長コードから飛ぶタップの光が間接照明のように色を付けている。ズキンズキンと脳の中で血流が暴れ回っている。アクルは舌打ちをして、ベッドの枕元に置いてあるはずのスマートフォンを手探りで探した。指先に触れた携帯を掴んだ。時間を知りたかった。
顔の前に持ってきたスマートフォンの電源を入れる。パッと顔の前が明るくなる。時刻は午前二時過ぎ。光源となっているスマートフォン越しに生気の無い男の顔が見えた。蛇の目が二つ、彼女の顔を見ていた。
一瞬アクルは息を呑み、溜息を吐いて舌打ちした。そして携帯の電源を切って二度寝した。頭痛は大抵明け方まで続く。
翌朝。アクルが出勤すると社長である赤松に、新入社員であるイノリを連れて客先へ行くよう頼まれた。
「悪いんだけどよ、ちょっと現場行かなきゃいけなくなったからよ、代わりに御中元置いてきてくれ」
「別の日じゃ駄目なんスか?」
「流石に当日ドタキャンすんのも気が引けるしな。それに向こうの都合も今日の午前中しか空いてねぇんだ。明日っから早めの夏期休業に入るからって」
アクルはそれを聞いて腕を組み、首を傾げた。ざらざらとウルフカットの黒髪が流れてピアスで埋め尽くされた耳殻が現れた。
「・・・・・・人選については、意図ありません? 尾上さんだって一人でお使いくらい出来ますよ」
「え、なんかダメな子扱いされてません?」
イノリの抗議はすんなりと無視されて、赤松は頬を掻いて「あー」と逡巡の後に応えた。
「我が家の『山の神』からのお告げだよ。『新人、怖い目に遭うから気を付けなよ』だと。俺は現場回りあって無理だからアクル以外っつったらクエさんだけど、クエさんは安衛協で一日埋まってるし」
「悪いんだけど頼むよ」と赤松は手を合わせる。それを聞いてアクルは「じゃあ仕方ないッスね」と肩を竦め、イノリは首を傾げた。
アクルとイノリは午前中に客先へ行くことにした。イノリは背広姿、アクルは事務服の上に作業着を羽織って出て行った。
客先には駐車場が無いということで、少し時間は掛かるが電車で向かうことにした。幸い、駅から歩いて程近いところにあると言う。大きなターミナル駅で乗り換えるのだが、あまりこの駅を利用しない二人は出る出口を間違えた。巨大なターミナル駅は出口があまりにも多い上に改札も数多あるので、本来出るはずの改札の、よりにもよって真反対に出てしまった。イノリとアクルは「やってしまった」と天を仰いだ。
気温が高いせいでイノリはジャケットを手に持ち、反対の手で御中元の入った紙袋を持たなくてはいけなかった。御中元の中身はビールなのでそこそこ重い。汗を流す彼とは対照的に、アクルは丈夫な布で作られた分厚い作業用の上着さえ脱がなかった。冷房が良く効いた室内にでもいるように平然と夏日の下に立っている。イノリはそれについてあまり深く考えなかった。
目的とは真反対の改札に出てしまった二人だが、少し時間は掛かるが駅の周りをぐるりと回れば乗り換えられる。時間にはまだ余裕があるので、イノリ達は駅の外周を回ろうと歩き出した。ふと、イノリの足が止まった。何となく見ていた風景に、何となく違和感があった。「なんだろうな」と彼は辺りを見回した。
「どうかしました?」
アクルは前を歩いていたイノリが足を止めたので訊ねる。彼は「いや、なんか」と曖昧にしか応えられないままにキョロキョロしている。駅の改札が見えた。ガラス張りの観光案内所。並ぶ券売機。多くの人が行き交う出口。ホームの壁際や、柱の傍には誰かを待っているらしい人の姿がある。特に珍しくもない光景。何かが変だ。
イノリの視線が止まった。
壁に背をぴたりと付けるようにして小柄な老人が立っていた。着古したポロシャツとチノパン。大きなボロボロのリュック。ホームレスにも思えた。老人は真っ白な頭を地面近くまで下げていた。腰を直角に曲げて。不自然なほど微動だにせぬまま。
背中に悪寒が走って、イノリは思わず「うわっ」と声を漏らした。アクルは怪訝そうな顔をしている。
「なんです?」
「えっあ、いや、いやあの、なんか、あのおじさん変じゃないですか?」
「は?」
アクルはイノリが見ているほうに目を向けようとして、途中で止めた。何かが彼女の上着の裾を引いたからだ。くん、とそう強くは無い力で裾を引かれた。アクルは顔を顰めてそれを意識しないように務める。頭痛が始まる。
「尾上さん、ソレ無視してください。ちょっかい掛けられても厄介ですから」
アクルはイノリの腕を掴んで引っ張る。
「具合が悪い人だったらどうするんですか?」
「具合悪い人だったらもう少しリアクションしますよ」
強く手首を掴まれたイノリは振り返った。そして悲鳴を飲み込む。
アクルの右肩に、「人間としては大き過ぎる」男の手が乗っていた。腐った死人の手だった。
「あ、あく、アクル、アクルさん、かっかっ肩ッ」
「・・・・・・認識すると喜ぶんでそれ以上言わんでください」
地の底を這うような声で答えるアクルの顔は真っ青だった。男の手はぐうっ、とアクルの肩を掴む。彼女はそれを無視する。
「尾上さん、そのおじさん、今どうなってます?」
そう言われてイノリは老人を伺う。老人の頭が僅かに上がっていた。
「なんか、顔見えそうです」
「駄目なヤツですね。タクシー乗ります。多分ついてきますから」
正直、イノリは老人よりもアクルのほうが気掛かりだった。ふらつかずに立っているのが不思議なほどに、顔色が悪かった。自分の手を引いている彼女の手はどんどん冷えていく。ひょっとしたら次の瞬間死ぬのではないかと思ってしまうほどに。
心配するイノリを引っ張って、アクルは駅の正面にある道路まで行きタクシーを停めた。二人で乗り込んだ後は彼女が運転手に行き先の住所を告げた。イノリは、不安になって窓の外を見てみた。
すぐ外にあの老人が頭を垂れて立っていた。
イノリは口を塞いで悲鳴を上げないようにした。タクシーが走り出す。老人の姿は遠離っていった。
「こ、怖かった・・・・・・」
緊張が解けたイノリの体はぐったりと前へ倒れる。項垂れた彼は「これが社長の言ってたヤツかな」と思った。そしてアクルのことが心配だったのを思い出した。
「アクルさん、大丈夫ですか?」
顔を上げたイノリは今度こそ「ギャア!」と悲鳴を上げた。
隣に座るアクルの肩に男の手が乗っていて、ギリギリと彼女の肩を掴んでいた。生々しいまま渇いた爪が彼女の服に食い込んでいた。
イノリは後退りしようとしてドアにぶつかった。アクルは未だに青い顔で窓の外を眺めている。今にも泣き出しそうな年上の後輩に、彼女は瀕死の状態のまま言った。
「尾上さん、なんか・・・・・・適当に・・・・・・駄弁っててください、かいわ、会話しましょう・・・・・・気が紛れるから・・・・・・畜生、うざってぇな・・・・・・」
凶相の彼女は死体の手と同じくらい怖い。そう思ってイノリは「あーあー!」と無意味に発声練習をしてから話し出した。
「そっ、そう、あのッ! やっ山の神! 山の神ってなんですか!?」
「ああ・・・・・・山の神・・・・・・山の神スね・・・・・・」
タクシーは速度を落とさず進み続ける。アクルが告げた客先の住所を目指して進んでいる。気怠げな彼女は返答する。
「山の神、というのは、『奥さん』の類語みたいなモンですよ・・・・・・社長が使えば、社長の奥さんを指すんです・・・・・・」
「なっなるほど~~! へ~~! 知らなかった~~!」
タクシーは大通りから住宅や小さなビルが並ぶ通りへと入っていく。目的地まであと少しだった。イノリは恐怖に耐えながら会話が途切れないように続ける。相変わらずアクルの肩には男の手が乗っている。加えて、彼女の顔を真っ黒な影が覗き込んでいた。
「社長の奥さんかぁ~! 全然想像出来ないな~! でも料理上手ですよねぇ~!」
「スッゲーおっかないですよ、奥さん、リセさんは、いや、美人なんですけど、怖いんですよ・・・・・・なんで人間の形してんだろって感じで・・・・・・」
「へ~~! 社長みたいですね~~!」
「社長はホラ、元気なヤクザみたいなモンなんですけど・・・・・・リセさん、下僕増やす系の神様みたいなんですよね・・・・・・尾上さん、社長の弁当、食ったでしょ?」
「あ、あ~! 前に確か、アクルさんが、『ヨモツヘグイ』って言ってたやつですね~! 俺あの後調べましたよ~! すごい食べちゃ駄目なヤツじゃないですか~!」
「尾上さん、変なテンションになり過ぎて目ェラリってきてますけど、大丈夫ですか?」
「全然大丈夫じゃないです! メチャクチャ怖いです!」
タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「・・・・・・私も、初日にあの弁当食べましたよ」
アクルがボソリと呟いた。イノリが「そうなんですか」と返すと彼女は深い溜息と共に言葉を続けた。
「『黄泉竈食ひ』というのはその通りで、リセさんの手料理を食べると、リセさんの一族っつーか、使用人に数えられるみたいで・・・・・・強制的に従属関係が発生するんですよ・・・・・・トップがリセさん、次に社長で、以下愉快な下僕達になります・・・・・・」
「ほ、他に食べた人っているんですか・・・・・・?」
タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「いますよ。クエさんは嫁ガードがキツいんで食べてないって本人が言ってましたけど、新入社員の殆どに社長が食べさせてますね。リセさんの命令で。クエさんもかなりのモンですが、社長は輪を掛けた恐妻家ですよ」
「こ、こわ・・・・・・」
「多分、尾上さんもリセさんに遭ったら分かります。スッゲーおっかねぇって」
タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「・・・・・・・・・・・・あの、アクルさん」
顔面蒼白で、滝のように冷や汗を流しているイノリは彼女を呼んだ。
「なんか、おかしくないですか? 現在進行形で」
タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「尾上さん・・・・・・気付くの、遅くないスか?」
アクルは呆れたような声で言った。
「なんだったら、最初に尾上さんが叫んだのに、タクシーの運転手さんが反応しなかった時から変でしたよ」
「えっあっ」
タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
イノリは泣きそうな顔で過呼吸寸前の状態に陥る。アクルは彼とは反対に現状に順応して、顔色も落ち着いた。肩に食い込む手や覗き込んでくる影は未だに煩わしい。煙草を吸えばすぐにでも追い払えるのに、と彼女は忌々しく思った。アクルは自分に付きまとう「それ」への対処が分かっている。
タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「これだと、約束の時間に遅れるな・・・・・・」
アクルは諦めた心地で息を吐き、目を閉じた。
「アクルさん助けてください!」
イノリが悲鳴を上げる。
タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが静かに停車した。
イノリは「気絶したい」と心の底から願ったが、全く意識を失わない。喪服姿の女が後部座席の窓を覗き込もうと身を屈めるのがあまりにも恐ろしくて瞼を閉じることも出来ない。本能的に理解していた。「女の顔を見たら駄目だ」と。
隣のアクルは落ち着き払って、まだ目を閉じている。
「どうか私達を助けて下さい。お礼に背中の皮膚を一部差し上げます」
アクルが頭を垂れて祈る。すると彼女の肩を掴んでいた手は離れ、顔を覗き込んでいた影も消えた。
イノリが「あっいなくなった」と思った次の瞬間、タクシーのフロントガラス一面に黒い何かが飛び散った。
「ギャアッ!」
「うわっ! な、なん、どうかしましたか?」
叫んだイノリに驚いた運転手が振り返る。気付けば、タクシーは目的地に着いていた。心配そうに後部座席の客達を見ている運転手は親切そうな初老の男性だった。まだ心臓が跳ね回っているイノリは喪服の女が消えたことを察した。隣に座っているアクルが痛みに耐えるような表情で料金を支払った。
「お世話様でした。ほら、尾上さん降りますよ」
彼女に促されてイノリも降車する。走り去っていくタクシーに不審な点は何もなかった。イノリは安堵の溜息を吐き出した。
「こ、怖かった~・・・・・・」
「最悪の行きずりでしたね。尾上さんがビビるせい駅から着いてきたんですよ、アレ」
アクルの言葉に彼はうんざりしたような顔しか出来ない。アクルは気分が落ち込む彼に気にしない。
「尾上さん、ちょっと見てもらいたいんスけど」
そう言って彼女が上着を脱ぐ。制服である長袖の白いシャツと黒いベストに包まれた背中をイノリに向けた。言われて見たイノリは、アクルの着ているシャツに赤い染みが出来ていることに気付いた。染みは徐々に大きくなっていく。
「えっ!? アクルさん怪我してますよ!? どうしたんですか!?」
彼の言葉を聞いてアクルは「あー」と項垂れる。上着を羽織り直して、彼女は「やれやれ」と頭を振る。首を曲げてバキバキと音を立てる。
「取り敢えず、御中元の挨拶済ませて、帰りましょう。帰りはタクシー使いますか。電車乗るの怠いんで」
「えっ1? いや、いや教えてくださいよ怖いから!」
アクルが舌打ちする。それだけでイノリは黙る。
「長い昔話になるんで、会社帰ってからにしましょうか」
彼女はそう言って、煙草を取り出して銜える。火を点けたPEACEは深く吸い込んだせいで一気に短くなる。アクルは白煙を吐き出しながら客先のチャイムを鳴らす。
つづく