強迫性障害と渇望
強迫性障害は、自分の意思に反してどうしても頭に浮かんでしまって払いのけられない考え(強迫観念)を持ったり、特定の行為をしないでいられない(強迫行為)症状が現れる病気です。仕事や人間関係など、さまざまなストレスが積み重なり発症するものと考えられているようです。
その症状には個人差があり、厳密にはその人にしかその苦しみは分からないものだと思うのですが、過去にこの病気を経験した私が今振り返って思うこと。それは、強迫観念や強迫行為に苦しむ人の中には、もともと感じている耐え難いストレスとは別に、心の底から強く渇望していることがある人がいるのではないかということです。
私が強迫性障害を発症するまで
今から10年以上も前のことです。勤めていた会社が重工系であったこともあり、純粋な理学を学んだ私は開発部門にいながらもなかなか会社の役には立てていませんでした。鉛筆とノートしか使えないまま入社していたので、配属されたチームでの仕事をこなすため実験的なことも毎日徹夜に近い状態で学ぶ日々でしたが、早くも自分の能力の限界を感じずにはいられませんでした。私は、どうやったら自分が生きていけるのか真剣に悩み始めました。
自分の力を信じられず、自分の価値観や感覚までもを疑う中で、それでも絶対に失いたくないものだけはあって・・そんな状況で、私は強迫性障害になっていったのです。
具体的にどんな強迫観念を持ちどんな強迫行為をするのかは人によって異なると思いますが、一人暮らしをしていた私の場合は、ガスの元栓がしまっているかどうかが心配になり何度も確認してしまうというものでした。
薬はできるだけ使いたくなかったのですが、出勤に支障が出るようになったため、やむなく薬も使って治療していくことに。この時点で発症から2年が経過しており、以降6年間に及ぶ薬物治療の始まりとなりました。
強迫性障害という病気について、今だから思うこと
強迫性障害になった当時の状況として、周りから「執着」と思われても仕方のないほど、私には自分の道や人生、そして人間関係について、どうしても手放すことができない願いや欲望がありました。会社に呑まれていく現実と折り合いをつけることを、とても難しいと感じていました。
ここで詳しく書くと別の話に発展してしまうので控えますが、私が働いていた会社には良くも悪くも「辛いことは考えない」ことをよしとする風土があって、私は先輩や上司から「もうそのことは考えるな」と何度も言われていました。良かれと思って皆アドバイスしてくれてたんですよね。
でも、わたしはやっぱり思うんです。誰でも人生で一度や二度は、折り合いをつけられないくらい、心を病むくらい、真剣に考えることがあって普通だと。それはその人が自分に正直に向き合っているから陥る状況で、私自身を振り返ってみても、自分に向き合うことがなければ、本当に自分が望むことも、自分を形作る核となっているものがなんなのかも分からないまま、ずっと流されるままに生きていたように思うんです。そういう意味においては、強迫性障害を発症した頃に心の中を占拠していたことがらをそのまま抱え続けることによって、私の人生観は醸成されてきたような気さえしています。
私は、自分の強迫性障害に限っては、欲と執着から発症していたと思っています。何かを諦めたから、希望をなくしたからこの病気になったのではなくて、暗闇の中にある一筋の光を「絶対あきらめない」と強く自分に言い聞かせているから、希望を持っているから、自分を信じたいと願うから、この病になっていたのではないかと。「それなら、病気になるから欲を手放せ、執着を手放せ」と言うのも違うと思うんです。病気になってしまうほどに大切な何かを見つけた。自分の核を成しているものに触れる重要な局面。そういう表現の方がしっくりくるような気がします。
もし仮に今、当時の私自身に対して言葉をかけることができるなら、伝えたいです。
手の中にある失いたくないものを今後発展させていけるのか、あるいはなくしてしまうのかは別にして、あなたにとって大切なものは、すでに今あなたの中にある。そうではないでしょうか。その気持ちを大事に抱えて、行けるところまで進んでみることしか、今は考えられないかもしれません。今は苦しい道中かもしれないですが、時を経て、その大切なものはあなたの中で結晶化され昇華されて、あなたのアイデンティティとして生涯残りつづけるように、私には思えます。
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