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シン・ジブン ~自分は今すぐに立ち上がれる~
この1週間、世間のご事情は刻一刻と変わりつつある中、私にとってはトリプル・コンボのような、それぞれがつながっている物語として、受け取ったことがあります。
ホントは、もっと深めたうえで書きたいのですが、いまのご時世だからこそ、書き留めておきたいことを第一報的に書きなぐりです。
シン・二ホン
2/20 先週末から #シンニホン であふれています。
このタイミングで、この本が世に生まれてくれたことはコーリング(天からのメッセージ)であり、受け取った自分は「未来と若者に対して何を成せるのか」を胸に秘めており、まだ読めていません。
私にとって、安宅さんからいろいろ学ばせていただいたことは、
・仕事=力×距離(Δ(デルタ=差分、変化)を生まないと仕事したことにならない)
・プロフェッショナルの仕事は、no excuse
・1.01の365乗=37.8、0.99の365乗=0.03
の3点に尽きます。
この視点をもちつつ、本丸の前に、このあたりから心を整えていきます。
シン・二ホンに向けて、「未来と若者に対して何を成せるのか」を実践し続けてこそ、シン・ジブンです。
トランステック×ウィズダム
2/25 peatix会場×zoom配信+facebookライブで、実施しました。
私にとって、「マインドフルネスのその先」のテーマを掲げた意図として、
「マインドフルネスはあくまでスタートラインであり、道があるんですよ、その先にはきっと、こういう景色もあるみたいですよ」と、お伝えしたいものでした。
トランステックは、内なる発達のサポートテクノロジーや関連領域の総称であり、言うなれば、シン・ヒューマンへの道。シン・ヒューマンの前に、シン・ジブンが問われており、Who am I ?、Who are we ?です。
そして、Wisdom2.0は、個人OSアップデートから社会OSへのアップデートへの道であり、インターネットの進化におけるWeb1.0とWeb2.0と呼んでいたことに似ているように思えます。
・Web1.0は、個人で情報発信できる価値(個のエンパワーメント)
・Web2.0は、みんなで情報をかぶせていける価値(ソーシャル的、UCG的)
であったように、
・Wisdom1.0は、過去からの叡智でつくられた価値
・Wisdom2.0は、みんなの叡智でつくっていく価値
なのかも。誰かが定義しているものがあるわけでもなく、シン・ジブンとつながっていく社会のありようをシン・セカイと呼ぶのかもしれません。
マインドフルネス
2/26 ヤフーLODGEイベントを切り替えて、Youtubeライブ配信しました。
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)は、次世代の認知行動療法として注目されていて、2011年時点で、熊野先生の本が出版されています。二十一世紀の自分探しプロジェクトと副題がついているように、やはりここでもシン・ジブンです。
ACTは行動分析学フレームワークとして確立されています。
中でも、おもしろいと思ったのは、脱フュージョンの考え方。
・フュージョンは、思考の自己と現実の自己を混同してしまっている行動
・脱フュージョンは、いったんとめて、思考と現実を区別する機能
肌感覚で思うのは、メタ認知が高くない人はフュージョン状態である傾向が多く、メタ認知が高まった人は脱フュージョンしやすいという傾向がありそうです。 脱フュージョンできると、行ったり来たりと自由自在。
さらに、熊野先生の講義で、おおお!と唸ってしまったのは、
「距離ゼロの俯瞰」という、いままでのメタ認知の視点とは、まったく違う視点です。
熊野先生の資料から引用しますと、
・いままでのメタ認知の視点(=距離をおいて見る)
・距離ゼロの俯瞰の視点(=注意を無数に分割する)
なんと、注意を向けているメタ視点がない、とうことです。
自分目線、他者目線とかは、あくまで目線の主体がある、残ってしまうのですが、この距離ゼロの俯瞰視点をもてると、すべての対象に対して、あるがままの知覚ができるようになるらしいです。
シン・二ホン、トランステック×ウィズダム、ACT・脱フュージョン、距離ゼロの俯瞰、など、一見すると文脈はなさそうなのですが、私にとっては、シン・ヒューマンやシン・セカイという明るい未来は創れることを知っていて、目覚めるきっかけとして、脱フュージョンし、ファクトフルネスに知覚できてくると、きっとシン・ジブン(未来と若者に対して何を成せるのか、を実践し続ける)に近づけるのではなかろうかということです。
そう、この国はもう一度立ち上がれますし、自分は今すぐに立ち上がれます。