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「スピリチュアル=気持ち悪い」と感じる理由

こんにちは。
響心(にこ)です。

私は今、カウンセラーの勉強と並行して
スピリチュアルリーディングの講座も受講しています。

「スピリチュアル」と聞いて
拒絶反応が起こる人は多いと思います。
最近でも、某俳優さんが「スピに目覚めとる…!」と
SNSで話題になってましたね。

なぜ世間は「スピリチュアル」を
怪しいもの、気持ち悪いものと感じるのか?について
私なりの考えをまとめました。


そもそもスピリチュアルって、何?

まずは、「スピリチュアル」の定義をWikipediaで調べてみました。

スピリチュアル(英: spiritual)は、ラテン語の spiritusに由来する英語で、霊的であること、精神に関することを意味する。英語の本来の意味では、宗教的・精神的な物事、教会に関する事柄、または、神の、聖霊の、霊の、魂の、精神の、超自然的な、神聖な、教会の、などを意味する形容詞。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB

なんか幅広くふんわりしてますね。。
なるべく誰もが腑に落ちやすい話で
説明してみます。

私たちには肉体があり、
その肉体が機能していることで生命を維持できています。

が、単純に肉体の機能だけでなく、
そこに個々人の性格や考え方、意識があってはじめて
ひとりの人として存在します。

脳を人工的に生成することは、物理的には可能だそうです。
ただ、生成したからといってそこに意識が宿るわけではない。
では「意識とは何か?」というのは、
脳科学でも研究途中の分野だそうです。

それら、人を人たらしめるものを広く精神と呼びます。

精神も、肉体とあわせて自分を構成する一要素である
というのは、ここまでの話で
ご理解いただけるかと思います。

そして精神こそが、
定義上「スピリチュアル」に含まれている部分です。
人は皆スピリチュアルな要素を持っている、と言えます。

つまり、スピリチュアルは
何ら特別なものではなく、生と共にあるものです。

、、ここまで、大丈夫でしょうか?
すでに拒絶反応が出ている人がいそうですが、、
続けますね。

怪しさのワケ

ここからは、常に密接しているスピリチュアルではなく
「怪しい」スピリチュアルについてお話ししていきます。

実は、先ほどのWikiの抜粋には続きがあります。

宗教、占い、スピリチュアルに関心の有る人は、カルトから勧誘や不安を煽る教え込みで「自分たち(彼ら)の世界」に引きこまれる注意が必要である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB

そうです、怪しさの原因
まさにこれっす笑。

なんですけど、それじゃ記事にした意味がないので
世間的に「怪しい」「気持ち悪い」と思われてる部分を
もうちょっと明確にしてみたいと思います。

まず前提として、
スピリチュアルなものは目に見えません。
(「視える系」の人の話はここでは省きます。)

問題なのは、その
目に見えない性質をいいことに
悪用する輩がいる
ことです。
具体的には、

  • 不安を煽って信じ込ませる
    (「自分たちを信仰しないと不幸が起こる」 etc.)

  • お金を巻き上げる

  • 周りを巻き込む(勧誘等)

などです。
そして、不安からなのでしょうが
そういう輩を盲信してしまう側の姿勢にも
気持ち悪さを感じます。

つまり、

  • 性質上、悪用しやすい

  • 騙される側は周りが見えなくなる

  • 悪用する側も、騙される側も、
    自己完結できずに周りを巻き込む

が、気持ち悪さの原因になってるんじゃないか?
と個人的に感じているポイントです。

脱「気持ち悪い」!
「信じる」の解像度を上げよう

先ほど「盲信する」という言い方をしましたが、
他の何も見えなくなるほどに信じ切ってしまう状態は
日常や人間関係に大きな影響をきたします。

ここからは「信じること」について
「濃度」「対象」の観点から掘り下げてみたいと思います。

信じるの「濃度」

まずは、信じるの「濃度」について。

自分も、スピ好きだと人に話すのは
未だに怖い感覚があります。

それはズバリ
「盲信してる怪しい奴」と思われそうだから!です。

でも私は、別に誰かに魂を捧げてませんし
言いなりにもなっていません。
毎月お布施を払ったり
高い道具を買わされている訳でもありません。

自分が良いと思ったものを取り入れてる、
ただそれだけです。

盲信すること、信じ込むことだけが「信じる」ではありません。
なのに、スピが絡むと何故か
濃度120%の「信じる」を連想する人が多い気がします。

そうじゃなくて、
もっと柔軟でいいんじゃないでしょうか。

例えば、20%くらい信用してる
て感じの、ライトな「信じる」があって良いと思うのです。
イメージしやすく数値で表しましたが、
こういう「なんとなく」な感覚って
日常的に誰にでもあるんじゃないでしょうか。

それに、置かれてる立場とか経験によって
考え方が変わっていくことは自然なことなので、
以前は信じてたけど、今は信じてない
以前は信じてなかったけど、今は信じてる

という考えも全然アリだと思います。

また、対象のすべてを信じ込むのではなくて
理解できる部分と信じられない部分がある
のように、選び取って良いものだとも思います。

つまり、濃度、時間軸、対象範囲に
ムラがあっても構わない
ということです。

信じる「対象」

スピ講座の講師・ともみんさんが話していた
信じる「対象」の話がとても興味深かったので
ここで共有します。

ともみんさん曰く、
スピ的「信じる対象」には下の3つのステップがあるとのこと。

信じる対象の3ステップ

1、他者、他人
まず最初は親、そして、自分より力のある他人の言うことを信じるステップ
(神や見えないものはまだ信じていない、信じられない)

2、神様、見えないもの(=一般的なスピのイメージ)
1を信じて幸せになれなかった人が進むステップ
(「神の言うことが正しい」など、ある種の正解がある状態)

3、自分
信じる対象も正解もなく、自分の感覚を信じるのみ。
1も2も、信じてるし、信じてない。

生きていく中でいろんな価値観に出会いますが
どの価値観を採用するか、最終的にはすべて自分次第です。
(これって、スピリチュアルに限った話じゃないですね。)

例えば自分の場合ですが、
受験期に親から「この学校に行きなさい」と言われていました。

このときの選択肢を、上の3ステップに当てはめて考えると
こんな感じでしょうか。

1「他に行きたい学校あるけど、親が言うからその学校に行こう」
2「えーどーしよう、、占い師に決めてもらおうかな」
3「は?私は行きたい学校行くし」

ちなみに現実は3でした。
でも3の選択肢って、無限です。
極端な言い方をすると
他人と天の言いなり以外は全部3に当てはまります。

「親が言う学校、調べてみたらめっちゃ自分に合ってそうだから
 そこを目指すことにしよう」
これ、1に当てはまらないのがわかりますか?
調べて目指すと決めたのは、あくまでも自分自身。
3は自分で考えて選び取っていく余地があるってことですね。

この世に生まれてきて、はじめは親の言うことを信じる。
それはごくごく自然なことです。

そこから、社会と接点を持ってさまざまな価値観を知り
思春期を経て徐々に自分軸ができていくのもまた
自然な流れです。

親や恩師、神様の言うことでさえ
自分が腑に落ちないことは採用しなくて良いのです。
あくまで何を信じるか、最終決定権は自分にあります。

まとめ

スピリチュアルが世間から
「怪しい」「気持ち悪い」と思われるのは、
信じる濃度や対象に自由度がない
いわゆる「怪しいスピ」のイメージが浸透していること
が原因ではないかと思っています。

スピリチュアル自体は悪くないという認識が
もっと広く浸透してほしい、
「スピリチュアル」という言葉の
ネガティブイメージが払拭されてほしい、
という気持ちでこの記事を書きました。

現代は様々な情報や価値観が溢れかえっているから尚更、
思い込みを外し、違和感に素直になって、
今の自分にしっくりくるものだけを取り入れていったら良いと思います。

日本人はそもそもが
スピリチュアリティな民族なのだと思います。
私たちが元から持っている感覚的な部分は
時代が変わっても、見て見ぬふりせず
良い方向に活かしていけたらいいな
と願います。

最後まで読んでくださりありがとうございました。
ではまた。

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