「壁」と「砂漠」
安部公房『壁』の解説者佐々木氏は、「安部公房のばあい、この砂漠は、同時にまた、壁と云い直す」ことができると述べた。先が見えない広大な砂漠は、空間を仕切り外と内を遮断する壁と同質である、というわけだ。
砂漠と言ってすぐ思い浮かぶのは、たいてい安部公房『砂の女』だろうが、わたしの場合は伊坂幸太郎『砂漠』である。同著で示される砂漠とは、鳩麦さんという主人公の恋人が、「社会」を形容した言葉である。学生たちはまだ小さな町に守られていて、町の外に広がっている砂漠を見たこともないくせに知った顔をして語っている、と。その際、主人公はその町を、堅牢な壁に囲まれた無機質な感じだと想像する(『進撃の巨人』で言うウォール・マリアみたいな)。
ここでも「壁」と「砂漠」である。
安部公房「壁」は、第一部から第三部までに分かれている。ここでは、わたしの一番お気に入りである第三部「赤い繭」から、「魔法のチョーク」という話を紹介したい。魔法のチョークでは、貧しい画家の青年が食う物に困って椅子しかない部屋でただ時間を過ごしていたとき、床に落ちていた魔法のチョークで壁に食べ物を描いてみると、日没後に描いた物たちが実物となって部屋に落ちていたところから始まる。青年は、太陽の光があると食べ物たちは壁に戻ってしまうことを発見し、窓とドアを塞ぎ、新しい世界を創造するため新しい扉を描くが、開けてみるとそこに広がるのはカラカラに乾いた広野である。そこで青年は自らをアダムと仮定し、イブとなる女性を絵から出現させる。その女性を生み出してしまったがために本来のドアは開けられ光が差し込み、壁の中の食べ物ばかり食べていた青年も壁に戻ってしまうのである。
青年が新しい世界を創る時、本当は窓を描きたかったのに、外の世界に何を描くべきか分からなかったために描いたのがドアであった。そしてそこにあったのはギラギラ光る太陽と広大な大地だけであった。つまり、先の見えない砂漠は、原初的なものであるということなのだろう。それを人類は壁によって仕切ることで、光を遮り、その場所場所で役割を変え、プライベートな空間を作り、あるいは悪者を閉じ込めた。広い空間である砂漠とそれを狭く区切っていく壁とは、正反対のものであると理解されがちだが、はじめに述べたように、外に何があるか分からない孤独な状態を生み出す点で同質だとも言えるわけである。
鳥取砂丘レベルの広大さしか経験していないわたしにとって、先も見えないほどの土地に一人たたずむことは想像しがたいが、生まれの地である満州の砂漠的風土に郷愁を抱いていたという安部公房の頭にある砂漠はどのようなものだったのだろうか。そして、あと1、2ヶ月後に一人砂漠に放り出された時、わたしの目にそこはどのように映るだろうか、少し不安でもある。
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