言語化するということ

最近部屋を片付けていて見つけた、自分が高校2〜3年のAO受験を準備しているときに使ってたノート。

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中には、塾とか学校の先生に教えてもらった知識のメモとか、志望理由書のフィードバックとかこれから調べる必要がある分野についてとかいろいろ書いてあってすごく懐かしくなった。その時に日記をつけてみるといいと言われて書いた英語の日記とかもあったりして。


もちろんそれは誰かに向けた文章ではなくて素直にその時の私の感情を表現したものだったけど、5年近く経って読み返してみると、あぁ高校生の私はこういうこと思ってたなとかこういうことに怒ってたなとかいろいろ蘇ってきた。

大学4年生に進級して大学生ももう終えようっていうこのタイミングで振り返ってみると、入る前にこれ勉強しようとかこういうこと活動しようと思ってたものと全然違う大学生活を送ってきたなと実感して、それが別に目標達成できなかったなっていう落胆とか後悔みたいな感情ではなくて、ただ今の私が考えてることとか学んでいることに至ったプロセスを知れたら良いのになとすごく思った。
多分誰かに悩みを相談したラインとかその当時の感情的なツイートとか見ればどういうきっかけがあったのか思考の変化の瞬間とか断片的には思い出せるのかも知れないけど、あんまり整理されていないし文字制限があるから書き切れてないところもいっぱいあると思う。

私はAO入試を受けるにあたって、自分の過去とか感情と向き合って自分史として言語化する機会があったから”高校生までの私”はわりとちゃんと認識できてるつもり。
でも、大学に入学してからそれをしてこなかったことをすごく後悔してる。結構今の私自身について自分でも分かんないところいっぱいあるし、何にイラついていてモヤモヤしているかが分からないから訳のわからない病み期が訪れたりすることもある。

昔を振り返って初心に戻ったり、逆に”自分”の変化にどういうきっかけとかイベントがあったのかを再確認する意味でも、自分の感情とか思考を言語化して整理するってやっぱり大事だなすごく痛感した。

でもこの”言語化”についても少し思うところがあるのでそれはまた別のnoteで。

最後にこのノートの表紙にある”Who can I be?”について、
このノートはアメリカから帰国して直後に書き始めたもので、その時は自分っていう存在が誰からの評価か分からないけど、誰かにとってvaluableな存在にならなければならないしなれると思ってた。大学合格っていう目標に向かって、最後まで葛藤してたこととか迷走してたことが分かるからラベルとしては間違ってないと思うんだけど、私がこれから使うノートの表紙に書くとしたら、I am who I AM とかBe Oneselfって書くかな。(いやI am who I am は聖書を連想させるから使わないかも笑)나는 나야.


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