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美しさの由縁 『歯車』
芥川龍之介の『歯車』を読んでみた。
以下、私の眼という通す光の波長が限られるフィルターを通して映る文章である。あしからず。
introduction
ある方が最後の部分を朗読されていたのを聞き、その朗読が私の琴線に触れた。荒廃した心情と美しい声。そのアンニュイな雰囲気を放つ物語の全貌をこの目をもって確かめたかったのである。
about
芥川龍之介の遺作と呼ばれる本作は、主人公が結婚式に向かう自動車の中でレエン・コオトを着た幽霊がでたという話を聞くところから始まる物語である。ここであらすじを取り上げるのが憚られるほどには一つ一つのエピソードそのものに関係性は希薄だと思われたが、そのエピソードをつなぐ要素それぞれに芸術的な情景描写が施してあり、その色鮮やかなこと、回収速度にはえも言われぬ美しさがあった。
内容に触れないわけにもいかないので、見出しのみ記しておく。
1.レエン・コオト 2.復讐 3.夜 4.まだ? 5.赤光 6.飛行機
1,6 2,5 3,4でそれぞれパラレルな構造をなしているというのが本作品の特徴であろうか。
・印象に残った単語
レエン・コオト...死の、不安の象徴
松...状況を表す風景、家
林檎...キリスト教における罪の象徴
鼠...色としても実体としても登場し、不気味なもの
半透明の歯車...精神病の象徴
髭...印象的ではあったが、私の解釈が及ばなかったものの一つ
緑、黄色...+と-の対比
政治、実業、芸術、科学...近代へと時間が流れてしまう中での抵抗感を表すものの列挙
result&discussion
読後の第一印象は、色の描写が詳細で、その色がありありと頭の中に投影される作品であるということであった。全編を通して印象的なのは黄色と緑色の対比だが、今でいうところの、イエローとブルーの系統の対比と同じようなことではないかと思案する。この作品において黄色はマイナスイメージ、緑はプラスイメージであった。それ以外にもたくさん色のついたものは登場するのだが、特筆すべきと感じた点は作品全体がセピア色がかっていて、すりガラスを通して見ているかのような輪郭を帯びていたことにある。時々映る赤や黄色のものや半透明のものだけが浮き上がって見え、それ以外は輪郭がぼんやりとした霧のかかったセピア色の世界にいる感じがするのだ。例えるなら、白内障かつ一型の色盲。実際、芥川自身が目に病気や特徴をもっていたわけではないのであろうが、鮮やかな色彩の特定のものに対するその他のもののくすみ具合に異質性を感じた。もしかすると、逆に、鮮やかな色彩の部分が我々の見えている世界より遥かに鮮やかで、その他の部分をそう表現するしかなかっただけなのかも知れない。もし、自分がこの作品を舞台として演出するなら、ナトリウムランプ*1の照明で全編創りたいと思ったほどだった。(鮮やかな部分は通常の白色照明でどうでしょう。)
非常に構成も練られて作られた作品であると感じたと同時に、これほどまでに自然物に偶然の一致を求めてしまった芥川の当時の心情を案ずると言葉にならない。自然のものを無理に人間の恣意的に分類し、関連付けることにおいて常軌を逸しているように思われる作品である。しかし、それが美しい作品なのだから仕方がない。自分の精神状態と引き換えに紡ぎ出されるその言葉はある種のエネルギーを生み出す。そのエネルギーは何ものにも変え難い。
どうして、言葉を自在に操る者はその言葉の持つエネルギーに飲み込まれやすいのだろうか。
この作品をどのように受け止めて良いものか、考え倦ねる。
芥川自身が、いかに時代に追い込まれ、絶望のときを過ごしたのか。そして、自身の作品に思い入れとプライドをもっていたのか。私は読んでいるうちに自分の呼吸が浅くなるのを感じた。誰か私の読んでゐるうちにそつと絞め殺そうとしているのではないか。そんな風に。
では、次の機会に。
*1...ナトリウムランプとはオレンジ〜黄色の波長のみ出力する照明で、その照明の下でものを見ると、色の判別が明暗でしか付かなくなり、万物がセピア色に見えるという照明のこと。