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死生観について

やっほ〜!クラン辺利田だよ〜!
死生観、割とマジめに話してみたいと思う。
閲覧いただきました皆様もぽつぽつと自分はこう思うな、と教えていただけましたら幸いです。


大前提⚠必ずお読みください

この話はアテクシの価値観の話であり、いかなる宗教・思想を非難する考えを持つものではないことをご承知おきの上閲覧をお願いいたします。
宗教には詳しくないため深く触れられませんが、何かを信じるというのは素敵な生き方だと思います。私は宗教概念を嫌悪とまでは行かずとも避ける傾向のあるこの国に生まれ育ちましたから、そのせいか宗教というものに無意識に忌避感を持ってしまっている節があるかと思います。この文章もそれが滲み出てしまっているのではないか、と不安になります。どうかその意図はないこと、議論をしたくて書いている訳では無いことをご理解ください。

第1章 生きるということ

生きるとは呼吸をすることです。空気を吸い込んで吐くことで我々は生きています。そしてその目的は欲を叶えることです。欲、と言うと世俗的に過ぎますが、なんでも良いのです。願いを叶えるため、と言っても良いと思います。それが追い求めた結果の良い事か悪い事かは、これまで積上げてきた歴史と後世の人々が決めることです。これまで積上げてきた歴史というのは、倫理観とか社会規範とか、そういったものです。我々が、シャーロック・ホームズの薬物使用を笑うように、後世の人々に笑われるような「おかしなこと」がきっとあります。でも今は気がつくことができません。(気がつく人は名を残すでしょう。凄いことなのです。)今は良い事だと思って後は悪い事だとわかることもあると思います。その逆も然りです。ましてや今の時代に反することは、特に犯罪等はよっぼどのことでない限りやめたほうがよろしいでしょう。捕まってしまいますからね。
そんな縛りの中で、何とかもがいてやりたいことに手を伸ばして自分を満足させること、これが生きる目的ではないかと思います。

第2章 死ぬということ

思考ができなくなった時です。私という存在が消えた時、と言ってもいいですね。アイデンティティを失い、私が私でなくなった時、私は死んだと言えるでしょう。法律的解釈や医学的解釈の死とは異なりますが、多分私はそう捉えています。
「テセウスの船」という思考実験がありますが、私は「大元、つまりは思考体(ここではテセウス)が己の船であるという自覚を持ち続ける限りはそれはテセウスの船である。」「もしも入れ替えられたパーツで、もうひとつの船を作ったとしても、それはテセウスの船では無い。テセウスがその船を己の船では無いと判断した時からテセウスの船であったものはただの船になる。」「テセウスの船というものの大元はテセウスの中にありテセウスがテセウスの船であると思っているからそれはテセウスの船なのだ」と思います。
逆に言えばテセウスの船はテセウスがテセウスの船であると言う記憶が自分からも他からも無くなった時、それはテセウスの船ではなくなります。
何が言いたいかと言うと、自分が自分を覚えていない時、それはもう自分では無いという事です。肉体から自分という自意識のラッピングを剥がした時、残るのはもう私ではありません。私では無い肉塊でしょう。

他の人の中にある私というラッピングは、他の人たちが私を忘れるまでその人たちにとっての私は存在し続けます。自意識を失った肉塊を、私と思ってくれる人がいるのなら、それは他の誰かにとっての私なのです。それは私にとって私でないことと両立します。否定もしません。先祖のお墓に行って、私がここに祖父がいると思うことは、祖父がもう笑わないことと息をしていないことと両立するのです。だって私はまだ、祖父はいると思っているからですね。私の中の祖父は私が死ぬ時に、私と一緒に消えるのです。それだけです。

私にとっての死は救いでも、償いでもないです。ただ、生きる時間のタイムリミットということです。私というラッピングが剥がされる時が、私の願いを叶えるためのタイムリミットです。私はここに生まれて育ち死んだのだから、来世も、前世もないのです。地獄も天国もありません。私はそれを無い、と思っているから私にとってはないだけで、他の人にはあるのかもしれません。

最後に

あまり人に話せる内容では無いので、文字にして残せてよかったなという気持ちです。私は私を誰かに知って欲しい、理解して欲しいという欲求が強いので(このようなnoteを書いている時点でお察しですが)この話を読んでこんな人もいるんだな、と思っていただけましたら幸いです。

書きすぎましたわ〜!アテクシの真面目モード怖ァ!!!!!じゃまたね。



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