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「許される」ことは甘えか?

私はゆとり世代のど真ん中である。

ゆとり世代と聞いてイメージすることといえば、「甘やかされている」「叱られるのが苦手」「勉強していない」といったところだろうか。

特に「甘やかされている」ことに対する世間の風当たりは非常に厳しい。
それは令和になった現在でも変わらず、SNSの炎上を見るとむしろ昔よりも過激になっているとさえ感じる。

やっぱり、何かを失敗したり間違えたりしたときは、厳しく対応しないと人は成長しないのだろうか?
それを簡単に許してしまうことは「甘え」なのだろうか?

私は、厳しくすることがすべて正解だとは思わない。
むしろ「許される」ことで成長を促す、可能性を広げると考える。

厳しく指導して言うことを聞かせるのは、むしろ簡単な教育方法だ。
未熟な人間を「恐怖」という感情で縛り上げることで、行動を制限させ、「正しい」行動しかさせない状態にすればよいのだから。
一度縛りつければそれ以上のアクションは必要ないので、もっとも効率的で簡単な指導法である。

しかし、それをされた側はあくまで「指導した」側にとって都合のいい人間になるだけであり、それは一個人としての成長ではない。
そうして教育された人間は、自分で考える力が停止し、そのくせある段階から「自分で考えなければならない」役割になってしまうのである。

結局、そうした人たちは自分が受けた指導しか知らないし考えることもできないから、また同じように厳しく縛り付ける指導をし、負の連鎖は繰り返されるのである。

一方で、「許す」ことは非常に勇気のいることだ。なんせ、失敗という行動に対しての指摘はしつつも、「失敗」という概念自体は肯定するので、許された側はまた「失敗」をする可能性が高いからである。

ただ、「許す」ことで相手の行動や可能性を狭めずに、常に伸びしろを期待される状態となる。これらの許しを得た人々は、許されたことに感謝を抱き、前向きな姿勢を折られることなく行動できるので、いずれは指導した側も上回る貢献をする可能性がある。

きっと、一部の「そうじゃない」人たちの悪行がクローズアップされ続けることで、縛り付けの強い風潮はなかなか無くならないのだろう。
しかし私は、「許す」姿勢で指導・教育にあたる人たちを強く尊敬するし、自分もそういった態度で自分以外の人たちに臨んでいきたい。

自分を「許さなかった」人たちへの反面教師として。


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