見出し画像

エロティシズムの果てに金閣を見るか(三島由紀夫-金閣寺)


右は現実で、左は虚構だった。
右は赤く、左は黒かった。

左手に残る微かな感覚を頼りに二つの世界の瀬戸際を彷徨い、到頭左手の親指と人差し指がお互いの存在を確かめ合った時、"エロティシズムの果てに金閣を見るか"という感懐は容赦無く私の心臓を突き、滔々と私を掣肘する主題となった。

三島由紀夫の金閣寺は、私に怨敵を譲るや否や一閃の稲妻の如く姿をくらましてしまった。それは美、それは吃音、それは認識、それは行為、それは模倣、それは嫉妬、それは自惚れ、それは存在であり、私はそれらを"エロティシズムの果てに金閣を見るか"というなんとも他人行儀なコードで受け取ったのである。

ともかく、三島由紀夫の金閣寺が帰らぬ人となってしまった以上、私はこの身一つであまりに明る過ぎる時間の中をほっつき歩き、ひいては直線上の空間の平均台をうろちょろして怨敵の急所を突かねばならない。その間だけ、帯刀御免でこの世界のどこかに身を潜めることを、どうか許してほしい。

私は、長々と人の心を揺さぶる文を書く才能もなければ丹念もないすっからかんの怠け者であるから、ここは狡猾に、そして昂然と、エロティシズムというものの意味付けを人の言葉で置き換えさせていただく。サルトルは、この世で一番わいせつなものを"縛られた女の体"とし、また三島由紀夫は、そこに"意思を奪われた主体性のない他者"を付け加えた。そして私は、これを金閣と呼ぶ。

金閣寺放火事件による再建後、妙に仰々しく輝く金箔を全身に纏わされ、不動の美というあまりに淡白な概念で片付けられている金閣は、まさに縛られた女の体であり、主体性のない他者である。それは究極のエロティシズムであり、同時に現代社会に対する極上のアンチテーゼである。

これで良いのだ。これで終わるはずなのだ。しかし私は、三島由紀夫の金閣寺に怨敵を譲られて以降、企みを含む恍惚とした表情で私の上に跨る金閣を見てしまう。それは真っ暗な夜、寝床で天井を見上げる私の視線の末端に必ず訪れ、私の応答を今か今かと待ち構えている。金閣は決して言葉を発さない。発さないけれど、私の応答を待っているのだ。ちっとも表情を変えない金閣の実相は少しずつ私を呑み込み、私の喉に手を突っ込み、私の声帯を揺さぶり、応答という行為を完遂させてしまう。そこで私たちの対話は遂に形を成し、私は金閣に意思を持った、主体性を奪還した、解かれた女の体を見る。その瞬間に究極のエロティシズムはたちまち崩壊し、極限状態にあった金閣は、あっさり生き物に落魄れる。

すると、誰かが声高にこう叫ぶ。「金閣は変幻自在の美の権化なんだ。そこには主体性の有無による二項対立的概念は存在せず、金閣はただ一次元的な世界の中に、どっしりと構えているだけなんだ。」と。これを聞いた私はたちまち顔を真っ赤にして、鬱勃たる憎悪を露わにし、一寸の斟酌の余地もなくそいつを最も強い言葉で罵るに違いない。おっと、自分の名誉の為に注意書きをするが、勿論心の中でするのである。

さて、私が何故ここまで金閣の超越性を訴える意見を嫌うのかと聞かれれば、理由は明快そのものであり、金閣が私たち人間の生臭い欲望を投影する捌け口になっていることが可哀想でたまらないからだ。私たちが目を介して何かを聴くとき、耳を介して何かを嗅ぐとき、鼻を介して何かを味わうとき、口を介して何かに触れるとき、手を介して何かを視るとき、形容し難い漠然とした美を金閣に求める思考回路というもの。豈図らんや、私はこれを、サイバー攻撃によってウイルス感染させ機能不全に陥らせたい。金閣は対象の根源であって、決して対象ではない。だからこそ美しいのだ。

ここまで来れば、私の論の矛盾は一層浮き彫りになり、貴方の目には私が井の中の蛙のように写っているはずだ。全くその通りなのだ。私は金閣の中に、万物の本質性という他者を見出し、それを美しい他者であると理解する。おまけに最も確信的な方法で金閣を主体性のある他者たらしめ、自ら最も屈辱的な論理破綻コースを開拓した私は、仏頂面をした惨めな世界の笑われ者に違いない。

しかし、私にとっては主体性を持った美しい他者こそが金閣で、金閣こそが主体性を持った美しい他者なのであり、この結論を覆すことはできない。如何に建設的なアプローチを組み立てて彼の尻尾を掴もうと邁進しようとも、遙か前方にその後ろ姿を認識しかけた瞬間、それまでの軌跡は完膚無きまでに瓦解し、彼を追いかける意味を忘れた所でスタート地点にワープする。つまり、ここまで熟々と綴ってきた私の日本語は全て楔形文字に化ける。

私には、この致命的なエラーが絶望的なほどわいせつに感じられ、故にエロティシズムの果てに金閣を見る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?