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新聞|言葉季評 穂村弘「る、る、ルビー?ルッコラ? しりとり今昔 永遠に新鮮」

しりとりで「る」が回ってきたら、昭和の人ならまずは「ルビー」が頭に浮かぶ。

ところが、穂村弘さんが最近見かけた小学生は、「ルッコラ」と答えていたという。

「ルッコラ」です。大変お洒落ですね。おそらく日常的に食卓に出ているのでしょう。時代の変化を感じます。

繰り出される言葉に時代の変化を感じるものの、子どもたちが一度は「しりとり」に夢中になるというのは今も昔も同じようで、単純な遊びなだけにその魅力は時代を問わないのかもしれません。

そんな「ルッコラ事件」をきっかけに穂村さんが思い出したという、「しりとり」にまつわる短歌がいくつか紹介されていた。

そのなかでも特に印象的だったのがこの一首。

きみとなら永遠にしりとりができそうな気がする る、る、ルパン
                                                  北山文子

2024/10/03 朝日新聞朝刊「言葉季評 穂村弘」

思わずクスッと笑いたくなるようで、少し切ない感じもする短歌。

穂村さんはこのように受け止めたという。

「きみとなら永遠にしりとりができそう」と云ったはずなのに、本当にそう思っていたはずなのに、「気がする」からの「る、る、ルパン」でいきなり「しりとり」が終わってしまった。でも、その衝撃が愛の本質を捉えているような気もする。すなわち、一瞬の「永遠」。

2024/10/03 朝日新聞朝刊「言葉季評 穂村弘」

子どもたちがまだ幼い頃、渋滞する車の中でよく「しりとり」をしていたことを思い出す。

生来の負けず嫌いが揃った我が家族なので、同じ音が続くように頭をフル回転させ競い合う一方、みんなしてうっかりミスを連発。続きそうで続かない「しりとり」ばかりしていた。よく笑った。渋滞といえば「しりとり」だった。

気がつけば子どもたちもそれぞれ忙しくなって、家族揃って車に乗る機会も減り、しばらく「しりとり」なぞしていない。

でも、中高生となり語彙の増えた今なら、永遠に続く「しりとり」ができる気がする。

いや、ひょっとしたら親の方が根負けするかも。親の知らぬ単語がたくさん出てきて、「なにそれ?」なんてやり取りが頻発するかもしれない。

楽しそうだ。今だったら昔とはまた違う戦い方をしてきて、きっと楽しいに違いない。

家族が揃う機会が貴重に思えてくる今日この頃。「久しぶりにしりとりでもどう?」と子どもたちを誘ってみようと思う。

親のわがままに付き合ってくれるかは分からないけれど。

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