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夕焼けの拳【掌編小説】
※本文は3,044字数です。
地方の小さなボクシングジムには、煌々とした夕陽がよく似合う。そこは、男達の酸い汗の匂いと熱い吐息で充溢している。大田拳士はプロボクサーを目指すイケメンの19歳だ。
「おい拳士、パンチ打ってみろ」
「はいっ!」
ジムの会長である山本は、そうやって拳士のパンチを全力で受け止める。空気を切り裂くような美しい左ジャブは渇いた音を立てると、ボクシングミットに吸い込まれていった。
「ハイ。ワン、ツー、ジャブ。次、ジャブからワン、ツー、最後、左アッパーカット!」
パンパン、パン。パン、パンパン、パン。
「うん。なかなかいい。ナイス!」
会長は鷹のような目つきで拳士を睨み返す。彼は、まだプロ未満の有望な選手が現実を知る前のこの夢心地の時間が好きだ。
拳士がパンチを打つごとにジムの外から歓声が上がる。仕事帰りのサラリーマンや、拳士目当ての若い女性までいる。
「ホゥ。拳士いいね」
声を掛けてきたのはジムの有望選手である小金沢翔平だ。翔平は拳士より6才上の25歳。プロボクサーとして現在5戦全勝で日本ランキング入りを狙うホープだ。
会長は持っていたミットを降ろした。何か意を決したような表情で、再び拳士を睨む。
「よし、今から翔平と拳士のスパーをやるぞ」
スパーとは、『スパーリング』の略称でヘッドギアを被ってボクシングの試合さながらに打ち合う実践形式の練習である。1ラウンドは3分間でおおよそ3ラウンドぐらいを目安に行う。
不意をつかれたような表情の拳士だったが、ここでアピールすればプロテストに向けて大きな自信になると思った。一方の翔平は、絶対にそうはさせまいと口を真一文字に結んでいる。失うものが多いのは翔平のほうだ。パンチを一発も喰らわずに、かつ圧倒するつもりだ。
「両者、リングへ--」
会長が二人にリングへ上がるように促す。ジム内にいる練習生と、先ほどまで外から眺めていた人々がいつの間にかリングを取り囲んでいた。ざっと50人はいるだろうか。小さな町でこの盛り上がり。おらが町の小さなタイガーボクシングジムが、イベント会場のような盛り上がりだ。
熱気を一斉に浴びた翔平と拳士がリングに上がる。翔平は一気にギアを入れ直した。それを上目使いで瞼に焼き付けた拳士が、やや遅れてギアを入れる。プロボクサーである翔平は気持ちのスイッチを、絶妙なタイミングで押す。スパーリングと言えども、殴り合うとは命を賭すことだ。殴る以上に殴られるという強い緊張感がなければ良いボクサーにはなれない。ボクシングとは、カッコイイという一言で片付けられない極限的スポーツなのだ。
レフリーの山本会長が高音を響かせる。
「青コーナー、大田ぁ〜拳士!」
「赤コーナー、小金沢ぁ〜翔平!」
どっちも両手を挙げてギャラリーの歓声に応えた。赤青の両コーナーに既に引退した若いトレーナーが就く。実践さながらどころか、一大イベントのようだ。両者は真剣な表情で目を合わせた。周囲が地鳴りを上げてドッと沸いた。
カンと空渇いた音がジム内に響き、その始まりを告げる。ワーっという歓声と共に両者が見合う。
普段はスーパーフライ級という、比較的体重が軽いクラスに属する二人は相対するのは意外にも始めてである。今までは、マスボクシング(ヘッドギアを被らない激しいパンチを打ち合わない練習)ぐらいでしか無かった。
最初は、拳士からの左ジャブがオープニングパンチだった。翔平は華麗なスリッピングアウェイで避ける。そこから体勢を整えることなく、鋭い右ストレートを返す。見物していたある中年男性が「翔平ナイスパンチ!」と声援を送った。翔平はニヤリと笑った。そこから、翔平がいきなりの左アッパーを放つ。顎にまともにクリーンヒットした拳士は、後退りをする。さすがは日本チャンピオン候補である。開始数秒で相手のディフェンスの甘さを完全に見抜くのだから。そこから拳士は防戦一方で両ガードで隙間を埋めるのが精一杯だった。最初はパンチが当たる度に歓声が上がっていたのが、拳士を慮る憐みのため息が増えていった。
1ラウンド開始から2分、初めて拳士は自コーナーのセコンドである若いトレーナーをチラッと見やった。
「拳士、ディフェンス、ディフェンス!耐えろ!」
あまりの地力の差に、スパーリングでありながら途中棄権を訴えたいと言わんばかりの目を拳士はしていた。
「はい、残り30秒!」
レフリーの山本が拳士に積極的に行くように声を掛ける。拳士は大きな声で一つ叫んだ。
ここで突如、拳士が前に出る。
虎のような鋭い目つきに変わり、翔平に襲いかかったのだ。
慌てて翔平は得意のスリッピングアウェイで避けようとするが、拳士の長いリーチが幸いしたのか左フックが顎をかすめた。強いパンチよりも顎をかすめた渾身の一撃で翔平は足元がよろけた。それを見た拳士はさらに接近する。間髪入れずに得意の右ストレートをボディーに打ち込む。捻じ込むように撃ち抜いた途端、翔平は「ウッ」と声を上げた。華麗かつ流れるようなフォームは、会長である山本直伝のものだ。今は中年太りした山本からは考えられない「柔よく剛を制す」を表したボクシング理論だ。
「ピー」タイマーから残り10秒の合図がけたたましく鳴る。
「いけー、拳ちゃん!」「翔君、プロの意地見せたれ!」
リングを取り囲む多くの人だかりは100人近くにまで増えていた。こんな小さな町のどこにこんな人達がいたのか。
「はい、二人とも!最後は、男同士殴り合え!」
レフリーの山本会長が今日一番の叫声を上げた。一番の応援者はその人だった。ジムにいる全員がそれに乗じるように拍手を送る。翔平と拳士も叫んだ。
スパーリングにも関わらず、本場の試合さながらの打ち合いは最高潮の盛り上がりを見せた。
たった1秒間に5発のパンチを翔平が放つと、拳士は美しいフォームから2〜3発を返していく。両者共、狂気的な目で鬼神のようだ。そうだ、ボクシングとは心の中ではお互い殺し合いをしている。ただの殴り合いではない。
「カン!」
一日の終わりを告げるようだった。窓の外から刺す鋭い遮光が、ちょうどリングのほうを照らすように両雄を包み込んだ。
翔平が歩み寄り、拳士の頭をポンと叩いた。拳士は頭をもたげ、翔平の胸で摩るような仕草を見せた。拳士は、泣いていた。プロの洗礼を受けたからなのか、恐怖心だったのか、よく分からなくなっていた。
自コーナーに戻った翔平は「やられたな」と言わんばかりの表情で舌を出した。
突然、会長はリング上からマイク片手にこう言った。
「みなさん、今日は二人の為にお集まり頂きありがとうございました! みなさんのご声援のおかげでこんなに盛り上がりました!」
今日一番の歓声と割れんばかりの拍手がジム内に響いた。
両雄は健闘を讃えあった。
会長は二人の手を掲げて、どちらにも勝敗は無いという様な表情を見せた。本当に両者に勝敗は無いだろう。
会場となったボクシングジムから多くの人がそれぞれの家路に向かった。先ほどまで人だかりで見えなかった、ジムの壁に掛かっている「石川から世界へ〜road to world boxing champion〜」が、リングからはっきり見えるまでしばらく時間がかかった。さっきまでの熱気と狂乱の残り滓はずっと消えない。それはきっと、ジムが無くなっても。
おらが町の小さなボクシングジムには明日も若者の野心と、人生ドラマが宿っている。
【了】
最後までお読み頂きありがとうございました。
本作品は自身のボクシング経験を基に描いたフィクション(作り話)です。