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朝焼けの幻たち【掌編小説】

 明朝のランニングから、私は一日の英気を享受する。

 去年60歳で大病を患ったが、奇跡的に退院した。そのちょうど半年後に、不思議なことに元の生活に戻った。さらには、その翌日から罪滅ぼしと言わんばかりに夫の則男と朝4時に起床し、ウォーキングを始めることにした。運動が苦手でも、病み上がりに人は突然思い立ったようにウォーキングを始めるらしい。

 元来から不健康生活だった夫は嫌々ながらも毎朝のウォーキングに付き合ってくれた。最初は嫌がる彼を無理矢理連れ出すのに苦労した。しばらくすると市民マラソン大会に出場すると宣言してきた。
 「今日も行きます。直美さん」
 まるで、勤め人の出社前であるかのように険しい表情をした則男は、リビングで私の右手を引っ張った。先月、65歳定年退職をした夫は会社に未練が残っているとでもいうのだろうか。最初のうちは通勤で、自宅から最寄り駅まで歩くことすら嫌がっていたのに。一体、どこの細胞がこの人の体内で目覚めたのだろう。私は、逆手に持っていたミネラルウォーターを一口含んで、急いで冷蔵庫に投げるように入れた。

 今朝の則男はいつもより落ち着いた瞳を湛えていた。

 よほど、生涯初めての市民マラソン大会に向けて気合いが入っているのだろう。とは言え、鬼気迫るまま私に市民マラソン大会参加を半ば強制的に勧めてきても厄介である。あくまでもマイペースで、ウォーキングをただ純粋に楽しみたい。これから流れゆく時間と同じく、全てに於いて急かされたくない。マラソンの記録タイムなんぞに、残りの人生を捉われるつもりは毛頭無いのだ。

 私は、今日も玄関を勢いよく開ける則男について行く。夫は早歩きで、妻はスローペースで。

 家を出たらすぐに大きな川で、その土手沿いが私達のお決まりのジョギングコースである。

 空は無数の雲が覆い重なるように広がっていた。今から雨が降るかもしれない。最近では珍しく、不穏な空模様も相まって、先を容赦なくズンズンと進む則男を訝しんだ。
 「ねぇ、いつもよりだいぶ早くない?」
 夫と妻。
 マラソンとジョギング。
 ランニングシャツ短パン姿と繊維が解けたヨレヨレのジャージ。
 ストップウォッチと腕時計。

 当然と言えば、当然で仕方のない光景ではあるが、生き急ぐようなスピードの彼につい不満の声が口をつく。
 「そうかい? 再来月には大会本番だから」
 颯爽と駆けるトップランナーに、その背中を追いかけさせられる人の気持ちは分からない。一秒の差を縮めることしか考えていない則男には、最愛の妻である私すら見えていなくなっていた。半世紀近く一緒にいる唯一の同士なのに・・・と一人呟いて、私は取り残された。まるで、突然別離を突きつけられたように虚しかった。
 「今日は、手を繋いでみる?」
 私の発言を聞いた則男は、当然驚いたような表情をした。
 「えっ本気? 走りながら手は繋げないでしょ?」
 彼は見知らぬ少年のようなリアクションをした。私は思わず頬を緩めた。私は、則男の赤面した頬を見て茶化したくなった。
 「じゃあ、手に唇を当ててみる?」
 私はそう言ったものの、自らの神経を疑った。
 「じゃあ、お互い手にふれるだけ、と言うことで」
 則男は頬を赤らめながらも、自らの指先をこちらに(早く握れ!)と言わんばかりに差し出した。私は、遠慮なく思いっきり指を握ろうと思った。相手が本気で痛がるまで。
 「痛い。痛い」
 「だから〜。そっちが先に指差し出してきたんだよ」あなたが全て悪いと言わんばかりに矛先を向けた。
 「ありがとう。直美」
 「えっ、何が?」私はびっくりして、則男の表情をまじまじと見つめた。思わず謝意の意味を尋ねた。
 「ー。生きていてくれて。」
 則夫は突然、ワンワンと人目もはばからず泣き出した。引くように驚いた私は、首を左右に向けた。毎日の運動効果でスリムになった則夫がいつもより一回り、いやもっと矮小に縮んで見えた。
 (「ありがとう」って其のセリフ、退院してから散々言われたよ)と心の中で反芻した私は、呆れ顔を則男に向けた。とは言いつつも、私の大病がきっかけで彼が不摂生人生から卒業して、市民マラソン大会という大目標が出来たことを心中では嬉々としていた。老夫婦が揃って長く生きたいと思い合うことは幸せだ。
 「則男さん、もう泣き止んだ? さあ、早くランニング再開しよう」
 走るペースが遅い私は、今日は夫のペースに少しでも合わせられるように精一杯頑張ろうと自らに言い聞かせた。則男は私の声に頷くと、ランニングシューズの紐を結びだした。
 「綺麗だね」「うん」
 どちらからともなく夫婦は共鳴した。

 気がつけば、無数の怪しい雨雲は消え失せていた。日の出はすっかり顔を出して、見るも美しい朝焼けを覗かせていた。
 「直美さん。今日は走れますか?」
 則男は仕返しと言わんばかりに、悪戯っぽく笑った。私はそれを見て破顔した。

 私達はゆっくり、ゆっくりと、一歩一歩をいつもよりも指先で噛み締めるように歩み出していた。【了】

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