ゲーム配信のゲームとは。
初めまして、禅ちゃんと申します。今日はゲームについてです。皆さんはゲームをどのようにお考えか?香川県ではゲーム時短という条例がでたと聞きましたが、私にとっては想像力の育成を抑制してるだけに過ぎない気がします。確かに大学や専門学校に進学するためや将来の進路に向けて新ゆる手段を使って勉強をし、険しい道のりを歩き、人生を歩いている人が多いでしょう。あるいはそこから外れてしまった人も。まあ、今回はそこから少し外れましょう。ゲームは楽しむもの。自分で時間を配分してやるか思い切りやるのかは自分次第。ただゲームただゲームと思われがちなことを話してみたい。例えば、PSソフト。ドラクエやFFといったRPGの根幹を成す作品は世界に名を残し、時代に名を残したのであろう。
しかし、ドラクエもFFも共通で当たり前のことがある。それは何か?最後はハッピーエンドかトュルーエンドである。FFいえば10作品目に出てくるティーダはXに限り、霊体?思念?夢という形で物語は終わりだ。まあ、生きているはずのない体故にいる方が不自然だが初めてプレイヤを泣かしに来たのは個人的にはこれだと思った。しかし当たり前になる中でゲームはゲームとよく耳にするが、当たり前になるゲームの中で死んでいくものを感じる時がある。重さだ。病んでいく事象。壊れゆく世界観や個人の人生観。能力や才能、知識も今の文化の中で生まれ、人と人が競い合うようになり今に至る。そう格差だ。そして力関係による人間間の能力差淘汰。金、知識、権力。それぞれの持つ個性がプライドと認知されて評価されていく。そこでゲームは本当に教育にはならないのか?そういうものなのか?事実ゲームの世界に触れ、人生視点を変えた人も少なからずいる。そこでこれから紹介するゲームは僕の人生で一番価値の残るものだ。興味がある方はぜひ調べて見てほしい。僕は嫌な人生間におけるこれは忘れてはならず僕だと思うものをここに記す。これは興味があればだ。うざいと思われた方はここで読み終えて自らの大切な時間、空間に還って欲しい。
では本題へいく。皆さんは『クロノクロス』というゲームをご存知だろうか。主人公セルジュ(本来の名)の物語が描かれる。最初は普通の村に産まれるが、奇妙な流れから大いなる運命の流れに巻き込まれていく。この作品はある世界観と並行する世界観が存在し、描かれているのだが実はなんと、主人公セルジュが死んだという事実が残る世界線なのだ。これによりどちらが本当の世界で、自分はなんなのかという疑問が生まれてくる。運命の悪戯なのかまるで誘うかのようにセルジュは行き交う様々な敵や仲間たちに巡り合い、巻き込まれていく。中盤になると、自らの姿を奪われてしまう。いきなり訳もわからず魂交換の儀式を行われたセルジュはその世界で大悪党の首領ともいうべきヤマネコという亜人に姿を奪われてしまう。最初こそ困難を極めたが諦めずに自分を取り戻そうというセルジュの前に不思議な存在『ツクヨミ』が現れる。そして諦めなよとまあピンチの主人公を貶めようとするあるあることを言うのですがこれは、上記で伝えた通り、ドラクエやFFより思いのです。いや間違えました。重いのです。ツクヨミはこう言います。
(セルジュなんだ?へー、でも本当なの?というか君は最初っから君だったの?例え本当の姿は君だったとして、今の君を誰が君と見るの?僕だよと言って誰が認めてくれるの?君は今間違いなく世界を混乱させたヤマネコ様なんだよ)的なことなどを語りかけてきます。ここだけでも違いますよね。考えさせられます。話は戻りますが、それでも諦めずセルジュは自分を取り戻そうと奔走します。少しまた戻りますがこの自問自答のような場所の前に、死と生の間の世界で初めて知り合えたスプリガンというおばあさん。このおばさんも主人公に語りかけます。
『一瞬の後、何が起こるかわからん。大切な物やかけがえのないものは容易く損なわれる。そして恐ろしいことにゃ、日々あたしらに降りかかる様々な出来事には何の意味もない。意味なんてものない、何が生まれ、何が失われようと、何がどう変わろうと。誰にも予測は付かず、見守ってくれるものもどこにもいない。』
そう語られます。ここまでくると何かゲームとは違う何かが心から湧いてくる気がするのです。
そうして、ツクヨミの質問責めが終わり、自分を捨てず戻ってこられたセルジュは今まで敵であったはずの人たちと話をすることができ、正体を知るスプリガンやツクヨミらのおかげで徐々にではあるが、セルジュという存在を認めさせることができ始めたのだ。物事の始まりは14年前の事故で偶然であったしまった不思議な存在に、偶然目をつけられトリガーとされた。いわゆる物語のキーマン的存在だ。そして、14年前の事故の日偶然導かれた『クロノポリス』は『死海』と呼ばれる最も恐れられていた海の中央にあった。そこを求めて物語を追っていく。死海の中で中央に聳える廃墟にたどり着くとそこはまるで時間と時間が無理矢理ねじ込まれたような場所だということに気づく。さらに深層部の廃墟に辿り着くとミゲルという男がセルジュの前に立ちはだかる。ミゲルと対話が始まり、この話を聞くことで物語のほぼ全貌を知り、大体が繋がり始める起点にもなればなり得るのだ。ここもだいぶ考えさせられます。ミゲルの周りにには子供の霊体と思わしき影が、実際は霊のようなものですが、本来あるべき霊ではないようです。しかし、こう語りかけていました。
『知っているかい?この世で、死ほど平等で無慈悲なものはない。あらゆる生物は歳をとりやがては死ぬ。それがどんなに偉大な生命だろうと、どんなにちっぽけな生命だろうと。そして生きているということは同時に死につつある、ということだ。』
ミゲルのいるこの場所は時間がない空間だった。それに魅了されていた。年老いることがなく朽ち果てることもない。限りなく静かで美しい夢しか見られない現実。この空間はどこにも属さない、、殺された未来の空間なのだと主人公に語る。同時にこう話す。
『歴史は選択と分岐で成り立っている。自分で選び取ったものが新たな世界をつくり、新たな未来を生み出していく。だが何かを選び取るということは同時に選ばれなかった他の未来を殺してしまうことでもある。』
そう死海とは選ばれずに殺された、殺され続けた未来が凝縮された世界なのだという。ではなぜこんなことが。ミゲルは語る。理屈ではなく『運命』と。
『運命は全てを知り、全てを支配する。誰も運命からは逃れられない。』
本来のプレイヤーなら違うという答えを選択するかもしれないが、僕にはミゲルも取り込まれてしまった被害者であり全てを否定しきれないでいる。なぜならこれが、彼が辿り着いた答えなのだと。そして実はここで初めて今回の元凶の存在が出てくる。
『1999年にその存在が目覚めようとしたことで星は死にかけていた。その名も『ラヴォス』星から飛来した生命体ラヴォス。大昔に飛来し、眠り星を喰らっていた。そして目覚め星は逃れようのない死を迎えた。しかし2300年の廃墟と化した廃虚を垣間見てしまった子たちがいた。彼らは遠い未来のことだからといってそのまま何もせず見殺しにはしなかった。いくつもの時代を越えて旅し、星の未来を賭けて戦い、これを見事打ち破る事に成功した。ラヴォスによって破壊されるはずの世界線は生きながらえた。歴史は大きく書き換えられることになった。その瞬間この廃虚ができたのだ』
という。しかし、所詮は可能性でしかない。この廃虚は殺された未来の復讐が始まるのでできたのだという。ミゲルは一言で締め括る
『壮大な神々のゲームだ。文句ひとつ許されず与えられた条件の下でベストを「尽くすか。諦めて退場するしかないと』
大体のはなしの辻褄がここら辺であってくる。この後死海は光と共に消えた。終盤に差し掛かり、並行世界の死海の場所に位置する、神の庭と呼ばれる場所に入るためにセルジュは竜の存在から竜の力を借りることで自分を取り戻す手助けを得ることになる。そして、体を竜の砦なる場所によりセルジュは実体を取り戻し、元凶に立ち向かっていくのだ。
どうだろう長かったがクロノクロスは言葉で表すのが難しいが。生命の意味やテーマといい自分らしさの大事さがあるというのを僕には思えた。自殺志願者の方にもそれを思ってる人に・・・・。死んだとこで代わってやることはできない。でもあなたは生きている。その代わりに失われた生命や未来もある。権利はあるが・・・・生きて見ないか。辛くても。代わってあげられないが託されたかもしれない生命かもしれない。そうやって思いやる、寄り添うことを学び共に成長する、していくことが我々に課せられた人生なのではないだろうか?今回はここで終わらせよう。次に紹介するゲームをお楽しみに。