天神さまの悩み 2回目
あまのはら ふりさけみれば かすがなる
みかさのやまに いでしつきかも
阿倍仲麻呂
大空を見上げ、はるか遠くを見渡してみると、美しい月が出ている
あの月はふるさとの奈良の春日にある三笠山に出ていた月なんだなあ
奈良時代の遣唐使の阿倍仲麻呂の歌です。
異国であり、航海も大変なので、遣唐使は必ずしも帰って来れるとは限りません。
道真が遣唐使に任命されます。
その辺りから話を再開します。
◯登場人物
・菅原道真(すがわらのみちざね)
50歳 参議→遣唐大使
・藤原時平(ふじわらのときひら)
24歳 中納言。藤原基経の子
・宇多天皇(うだてんのう)
28歳 今上天皇
前回の遣唐使派遣から55年経っていました。
唐からの客人から遣唐使の派遣を勧められていたようで、宇多天皇も遣唐使派遣に前向きでした。この時、実は唐の国は衰えてきているのと情報もありました。
宇多天皇は菅原道真を遣唐大使に任命しました。菅原道真は考えさせて下さいと言いました。勅命(天皇の命令)なので、覆すことはできません。
この時、藤原時平や他の貴族たちが、身分の低い道真が宇多天皇に気に入られているので、遠ざける為に仕組まれたのでないかと思われています。
それもあるかもしれませんが、遣唐使をやめる為の宇多天皇と菅原道真のデモンストレーションだったと思います。
理由は
1. 唐が衰えてきていたこと。13年後、907 年に唐は滅亡しています。遣唐使は長期に滞在し、帰って来れないかもしれないのでよかったと思います。
2. 唐からも多くの知識人が来日しており、行ってまで学ぶことはないのではないかとの意見もあった。
3. もうすでに日本も政治体制や文字もしっかりしてきて、独自の文化が花開きかけていた。
宇多天皇はそれでも遣唐使派遣の検討は続いていました。道真も遣唐大使の任は解かれていませんでした。
宇多天皇自身も臣籍から天皇になったので、代々の天皇が派遣していた遣唐使を引き継ぐことで自分自身の天皇の正統性をアピールしたかったかもしれません。
藤原時平と菅原道真の関係も説明します。
不仲説はなかったと思われます。
1. お互い和歌を送りあっていたこと。
2. 父の基経は道真の才能を認めていて、
時平も道真の才能は認めていました。
仲が特別よかった訳でありませんが、挨拶などやり取りは続いていました。時平悪人説は無いと思います。
では誰が道真を敵視していたのか?
それはその他の多くの貴族だと思います。
藤原家や源家や橘家といった高貴な家柄では無かったので、嫉妬や妬みがあったと思います。そういう空気が支配していたのかもしれません。
更に宇多天皇と藤原時平との確執もあり、道真の運命がまた翻弄されることとなります。
897年に宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が即位します。宇多天皇は上皇となり、引き続き政治力は持っています。
菅原道真は醍醐天皇の時に右大臣となります。
藤原時平は左大臣です。
色々な思惑が渦巻くなか、事件が起きます。
次回へ続く。
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