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改めまして自己紹介。怨念ライターです。

 裸で歩く。

 昔はこうはできなかった。
自分の体に微塵も自信などなく、認められなかったからだ。
 女という生き物は皆、峰不二子になると思っていた。
 だが30歳にもなれば理解できる。
「私は峰不二子にはなれなかった。だが、全く悪くない」

 この思考に至るまでの道のりは長かった。

 まづは否定。
 中学1年生の時、祖母がCの下着を買ってきた。
水色の花柄のものだった。
 待った。
3年、待った。
だが、つけられない。足りないからだ。
 違う。そんなはずはない。そんなことない。

 次に怒り。
 どうしてなんだ。私の遺伝子はなぜ、人より劣っているのだ。
 私はただ、普通がほしいだけなのに。

 次に取引。
 ネットで検索してみる。
どうやらこの問題は、お金と交換することができるらしい。
医学的に、実を入れることが可能と書かれている。
 バイト代でいけるだろうか。

 次に抑うつ。
 私が峰不二子になる日はいつくるのだろうか。
 毎日、浴室で鏡を見ては嘆く。
 外出する時は自然と猫背になる。他人からどう見られているのだろうか。

 最後に受容。
 何度見ても変わらないよ。
 君は、私は、峰不二子にはなれないんだ。
 だからこそ、胸をはって歩かないとダメだ。
 ないものはない。

 5才の時に死んだ母親と同じだ。
ないものがなぜないのかを考えることに、意味も価値もない。
 では、私には何が"ある"?
"ある"と思うための基準はなんだ?
便利だったり、"なんとなくいい"と感じるものだろうか。
 それらを見つけられた時、「私は存外、わるくない」になった。 

 ここまでの道は、キューブラー・ロスが唱えた「死の受容過程」と同じだ。
 看護師の仕事中、カルテ記事によく書いた。


 周りを見渡す。
老婆たちは背を丸くし、タオルで前を隠している。
とはいっても何も隠せていない。前でタオルをぶら下げているだけだ。
 まるでタオルで隠すのがエチケットとでも言いたいのだろうか。
 私はタオルを棚に置き、手ぶらで歩いた。
いつも通り、大股で早足で歩く。いつも以上に胸をはる。

 今日は本当に天気がいい。

 露天風呂に向かう。
青空で、日の光が温泉の湯に反射している。
 お天道様から私の裸体が丸見えだな。
 温泉の湯に、体を隠してもらった。
肩まで隠してもらったところで、反射的に目が閉じられた。

 水がそこら中で優しく動きまわっている。
 風がもみじを撫でる音。
 湯気が私の顔を沿って登っていっている。
 金木犀の香り。

 老婆達が楽しそうに何か言い合っている。
 女は風呂の中でもよく喋る。

 こう思ったのは2度目だ。
1度目は、いつだったか。
 そうだ、児童養護施設に入っていた時だ。

 施設入所の初日の入浴時。

 周りの女の子達はずっと何か喋っている。
 何をそんなに喋ることがあるのだろうか。

 私は共同風呂にオドオドしていた。服を脱げずにいた。
 沢山の他人の前で裸になることに、抵抗があったのだ。
 隣の女の子がそんな私に喝を入れた。
「格好悪いからやめな」
だった気がする。
 ヤクザの娘だった。

 最初はヤクザの娘と聞いて怖かった。
 これからきっと、この子に暴力を振るわれる日々が始まるのだろうと確信した。
 だがそんな日は一日もなかった。
 いや、一度だけビンタをされたな。忘れない。右からビンタがきた。と、いうことは、彼女は左利きだったのか。


 目を開けた。

 穏やかな空間に戻ってきた。
記憶を辿る旅に出ると時間間隔がおかしくなる。
 水を飲もうと立ち上がると、めまいがした。
 もう出た方がよさそうなのだが、あと一つ、入っていない風呂がある。
 炭酸泉だ。
炭酸泉には絶対に入らなければ。
 ふらつきながら水を飲みに行き、炭酸泉に入った。
 足だけ湯にいれ、堪能した。
 この、体に泡が纏うのが"なんかいい"。

 私の反対側に老婆が3人いた。
そのうちの1人の老婆が、洗面器で何かをすくっている。ゴミでもあったのだろうか。
 私は湯気の中、少し朦朧としながらこの老婆を眺めていた。
 老婆は同じ行動を繰り返している。
 少し経つと老婆の隣に、50代ぐらいの女性が座った。
 途端に老婆はこの女性に近づいていった。
「ほら。これ、髪の毛」
と、洗面器の中を女性に見せている。
女性は
「あ…、拾ってくださったのですね。ありがとうございます」
と、当たり障りない返答をしていた。
それに対して老婆が放った言葉は、
「これ。長い髪だからな」
 その言葉のあと、無言の空間となった。

 因みに、この50代ぐらいの女性はショートヘアだ。
 老婆は薄毛ヘアーだ。
 私はロングヘアーだ。
 もちろん、髪は縛って湯につかないようにしている。
 温泉好きな私としては当たり前だ。
 用を足した後に水を流すぐらい、当たり前のことだ。
 一応、見渡してみた。
やはり、炭酸泉の湯船の中で髪が長いのは私だけだ。
 明らかに老婆は、この女性を通して私に言っているのだ。

 このような害的な老婆とは、罪悪感を与えるのが得意であり、好きなのだ。
 私の祖母がそうだから断言できる。
「あんたは死んだ母親にそっくり。お父さんが可哀想」と何度も言われた。
 兄が自殺しても自分の毒親ぶりに気が付かない。自分の息子の毒親ぶりも気が付かない。
 児童養護施設に入ったのは父親のせいではないと、死んだ兄に何度も洗脳していた。父は兄を何十発も殴ったのに?裸で廊下掃除をさせたのに?休日は必ず食事を抜いていたのに?
奴らは本当に気がついていないのか?
違う。気がついていても認められないのだろう。自分を見れないのだろう。怖いのだろう。

 私は害のある老人が心底嫌いだ。
 だから私は洗面器老婆に対して、苛つきを隠さなかった。
 背筋を伸ばし、手を組み、足を組み、その場から1ミリも動かず座っていた。
 絶対にこの老婆より先に湯船から出ないと決めた。
 気まずい気持ちももたない。罪悪感だってもたない。
 朦朧とした目で湯船を見、平然とする。

 だが不意に、
「無礼な相手にこそ、礼儀を尽くす。そうすると怒りが別の何かに変わる」
という言葉を思い出した。
 この間、読んだ本の中にあった言葉だ。

 この言葉を頭の中で3周まわした。
 私は腕を組むのをやめ、足を正しい位置に戻した。
思いっきり真上に両手を伸ばし、伸びをした。
 老婆に、
「今日はいい湯ですね〜。お先に失礼します〜」
と言い、湯船から出た。
──という、妄想はしたが、言う勇気はなかった。
笑顔で会釈して、立ち去った。



そうだった。
害のある、無礼な人間にかき乱されるということで生まれるのは怒りだけではない。
自分が分からなくなるという致命的な副作用があるのだ。
自ら泥沼に足を踏み入れなくていい。
これらは、正義をかざしたいわけでもなく、人を正しく導きたいでもなく、優越感を感じたいわけでもない。
暇なのだ。
長い人生に、変わらない日々に、家族に心を寄せてもらえなくなった現実に辟易しているのだ。
暇とは地獄なのだ。
死ねないとは地獄だ。
死ねないと感じることこそが地獄だ。
死の世界を恋しがっている。
一番恐ろしいことは、死ぬことではない。
親などに愛を求め続けた故に、兄は死を恋しがってしまったのだろう。
哀れで、惨めで、人らしく、愛を好む人だったのかもしれない。
自死した兄の本心は、私が死んだ後にでも聞いてみよう。
その時がくるまでは、あれやこれやと考えては文章にしてみることにした。




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