親から虐待を受けた子どもは人生終わるのか②
社会的養護を受けることになった日
彼が社会的養護を受けるきっかけは、母親・兄からの虐待だ。
小学生から17歳になるまで虐待を受けていた。
17歳の時、寝ていた彼の胸に母親は熱湯をかけた。すぐに服を脱いだため、火傷の痕はそう残らなかった。
熱湯をかけられた時、自分で警察を呼んだ。保護されることを警察・児童相談所職員に意思表示し自立援助ホームへの入所が決まった。
私は保護された時の状況を想像していた。息を飲むのとは少し違う、喉の奥を閉じるような動きをしてしまい表情が固くなっていたと思う。
「母親に熱湯をかけられたきっかけはなんだったんですか?言い合いをしていたとか?」
「理由ですか。なんだったんでしょうね。たいして覚えてないです」
少し笑っていた。本当に理由がわからないのだろう。人は理由をつけたがる生き物だ。しかし彼の中でこの事実に対する理由なんて本気でどうでもいいと思っているように私はみえた。
私は彼に対して何か違和感のようなものを感じながら、インタビューを続けた。
兄に骨を2本折られた
彼は一般・普通といった枠からは外れた人生を歩んできたと断言していいと私は思う。
母親は40代のシングルマザーでアルコール中毒。
何かしらの仕事はしているが、ステージⅢの癌治療のため寝たきりになっている時期もあった。ブラックリストに入っているため携帯の契約等はできない。過去に借金があったようだ。
兄弟は7歳上の兄と9歳下の弟。兄弟3人とも父親が違う。
兄の父親は詳細不明だが現在拘留されている。
彼の父親は彼が母親のお腹の中にいる時に心筋梗塞で急死した。
弟の父親は祖母より年上の人で、すでに他界している。
「僕が小1で兄が中1の時、硬いボールで蹴られて腕の骨が2本折れました。凄く痛かったです。でも兄や母がどんな対応をしたかとか、他の事はあまり覚えてないです。兄はもう手に負えない人でした」
母親はお酒を飲むと暴言・暴力を振るう人だった。噛まれることもあった。居酒屋へ行き食事後は弟と車で寝て母親を待つのが、彼にとっての当たり前だった。
茨城県の居酒屋に居たのに、彼が目を覚ましたら東京の浅草に居たこともあった。なぜ浅草にいるのか母親も記憶なく、茨城県へトンボ返り。
そんなことがよくあったため、学校に行けない日が多かった。
学校の先生は連日来ない彼を気にかけなかったのだろうか。当時の彼にとって学校の先生すらも悩みを相談する対象ではなかった。
その理由は先生からの激しい体罰だった。子どもの力では対抗できない強さで耳を引っ張られた。耳が切れたため問題となった。
校長室で、先生から彼に謝罪するという場も設けられた。母親もその時同席し、先生に対して凄く怒っていたそうだ。だがそのような場が設けられたにも関わらず体罰は続いた。
ろくな大人がいなかったとはこのような時に言うのだろう。
そのうち全く学校に行かなくなり、ゲーム中毒になった。オンライン上のゲームだ。
「何されてもゲームしてればいっか…って。母親・兄からの暴力も、最初は痛い・ヤダみたいな感情があったけど、徐々にそれに囚われなくなっていきました」
彼はここまでの家庭環境について物凄く淡々と話していった。
衝撃的な多くの言葉に反して表情はあまり変わらず、それどころか時々軽く笑いながら話していた。
トーンの変化なく話す彼に対して私も合わせようと努力したが、言葉・表情・感情がちぐはぐになるような、なんとも言えない違和感のような感覚と空気の中、会話が続いていった。
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