親を大切にできない人間は、家族愛を肯定するか否定するか
兄が自死したため、残っている家族といえば、祖母・父・弟の3人。
祖母とは一生、お互いを理解し得ないだろう。男尊女卑が著しく、幼少期は特に女の私に対し否定的で攻撃的だった。10年以上共に暮らしたこともあったのだが、彼女は私を異質で異物だと言い、私も彼女に対して同意見だ。
父とはあまり会話がなかったため、よくわからない人だった。だが、私の結婚後に交流が増えた。理由は夫と娘だ。父は、夫と孫を可愛がっていた。しかし兄が自死後に色々と父について理解が追いついていき、毒親だったと認識するようになった。
弟は唯一私と気が合うような緩い性格なのだが、それゆえに冠婚葬祭以外で会う約束をすることはない。といった感じだ。
つまり、私は自分の親を全く大切にしていない。
父親は、血の繋がった本当の父だ。
祖母は、幼少期に母が亡くなって以降、長く共に暮らした。
2人とも血の繋がりがあり、長く共に時間を過ごした。
それでも情が湧かず、大切に思う気持ちはこれっぽっちもない。
いつか、家族に「助けてほしい」と言われたとする。弟以外は助けない。
これに関しては、「その時にならないと分からないけれど…。多分、助けないと思います」ではなく、はっきりと「助けない」だ。
宗教の教え的なものをみると、必ずと言っていいほど「家族を大切にしなさい/親を大切にしなさい」が書かれている。
洋画では「家族じゃないか」というセリフをよく聞く。仲違いをしていたとしても、最終的には子は親を絶対に見捨てない。
SNSでは子から親へのサプライズ動画が流れてくる。親が感動で涙し、それっぽい音楽が流れ、感動のシーンの出来上がりだ。
30歳の子持ち同僚が「親と同居してるんです」と言うと、皆が口を揃えて「えらいね〜」と言う。
アニメの中でも、ナルトが術式の中で父母と再開を果たし感謝を述べたシーンは皆が泣いただろう。
親に感謝し、親を大切にすることは、人として当然である。
これは、人間社会で生きていく上で当然の価値観だ。
これができる人は、人として器が広く、良い人間であり、将来良い思いをするだろう。良い思いとは、孫の代まで愛され寂しい思いをしないということだ。
これが人間の摂理なのだと思う。
社会的な生き物である人間として生を受けたのならば、当然としてもっておかなければならない。
人としてのあり方であり、正しさであり、美しさであり、愛であり、これぞ人なのである。
移り変わりの速い現代で、どれだけ大きく世界や文化が変わったとしても、「親を大切にすることは大事なことだ」は変わっていかないのではないだろうか。
私のような、目の前で親が助けを乞うたとしても見捨てられるような感覚で生きている人間は、もうどうしようもない生き物の枠組みに入ってしまったのだろうか。
そんなことを定期的に頭の中に浮かんでは忘れてを繰り返している。
忘れてしまうのは、どうにもできないことだと思っているから。
今更、親を大切にするフリすら出来ない。
だからこの自分の問題に対して、解決策などない。
ただ一つ、懸念している問題がある。
それは、夫の親のことだ。
私は"自分の親を大切にできない"という価値観があったとしても、夫が親を大切にすることを否定してはいけない。
当然のことなのだが、きっと、無意識に私は配慮が足りない思考をしている時があるのではないだろうか。
きっとこれは些細でも無視してはいけない、注意しなければならないズレだと常々思っている。
大きな価値観の違いであり、今後色々な方面に作用していってしまうのだろう。
とはいえ、普段の生活の中で"家族愛"を目の当たりにした時、いちいち否定した気持ちになっているかといえば、そうではない。
実を言うと学生時代は、いちいち否定した考えが浮かんでしまっていた。
親が好きなんてダサい。親の言う通りに生きるなんてダサい。親を大切にするなんてダサい。寒い。親に頼らずに生きてる方が強い。偉い。かっこいい。家族愛をテーマにしてる映画なんか観てられない。ってところだろうか。(記憶補正で少し過剰になっているかもしれないが)
書いていて気がついたのだが、思春期のヤンキーが言いそうなセリフだ。
まあ、幼稚で心の淋しい人間で、逆にダサくて痛かったなあ。
この思考が変わった最初のきっかけは、看護師だ。
看護師の仕事を始めてみると、家族関係をリアルに見たり聞いたりする機会が増えた。
息子がやっと電話に出てくれたと思ったら「本人が死んだら電話してください」と言って切られたこともあれば、毎日面会人が来て楽しく会話をしている人もいる。本妻と娘と不倫相手に最期を見守ってもらった人もいた。
もちろん、医療者に対して嘘や方便を言っている人もいるだろう。本心でなければならない訳でもない。
それでもやはり長く関わると態度や行動や言葉の端々で、色々感じたり理解していく。別室で家族と会話をしたりすると、関係性が合致したりする。
このように他人の家族関係をみていくうちに、考えが自然と変わっていった。
実際に目の前で見る家族愛に対し、尊いと感じるようになった。
理由など分からず、ただそのように感じるようになっていった。
人がお互いを大切にしている様子は、感動のセリフなどなくても美しかった。
そう思うようになると、徐々に他人の家族愛を否定しなくなった。
自分の家族に対する考えと、他人の家族愛を、完全に分けて考えられるようになった。
そして完全に家族愛を肯定できるようになったきっかけは、出産だ。
気がついたきっかけは、ジブリアニメを観ていた時だ。
「魔女の宅急便」は、ジブリ好きの友人とセリフを先読みしながら観るぐらい、繰り返し何度も観た映画だ。
映画の中で何度も観たシーンなのに、出産後初めて魔女の宅急便を見た時、涙が大量に出た。
そう、キキが実家を出る日。父親がキキをハグした時、「いつのまにこんなに大きくなっちゃったんだろう」と溢れ出たように言った時のシーンだ。
私は赤ちゃんだった娘を抱っこしながら、ボロボロと涙を流がでていた。
産後の一時的なメンタルのせいかとも思ったが、あれから3年以上経っても見方は変わらなかった。
この時、私は親という生き物に変わったんだ。人間も思考もまるっと変わったのだと実感した。
身近な友人や知り合いが、親を大切にしている話を聞くと、今では感動して涙が滲むほどだ。
当然、そんな親は捨てるべきだ。離れるべきだ。と思う時はある。
そんな時は無意識に自身の親との関係性を思い出す。
だが人が親を大切にしているのを見て、それを尊いと感じないのは寂しく、腐っていっている証拠でもあると思う。
毒親育ちで怨念がこもった記事を書いてしまう私だが、家族愛を否定するほど腐ってはいない怨念ライターであろうと思う。
来世では私の親友のような人間でありたい。
祖母の通院の付き添いで有給を使い、還暦祝いで沖縄旅行に共に行き、結婚式では親にサプライズをして泣かせる。親の最期を自宅で看取りたいがために看護師の職業を選ぶような、まるで映画のように親を大切にできるような人間であったらいいなと思っている。
流石にそこまではムリかなあ。