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児童養護施設の先生/大人は子に絡めばいい

 小学4年生の時、児童養護施設に入った。


 私が入所した児童養護施設は男子寮と女子寮に分かれていて、2歳〜高校生までの子達がいた。
 大人は日中は3人ほど、夜間帯には1人いた。
その大人の中で、一番印象に残っている先生がいる。

 田中先生(仮名)は男の先生で、当時は32歳だったと記憶している。

 児童養護施設の食事は、学校の給食のように調理師さんが作ってくれたものがワゴンで運ばれてくる。
だが米だけは、大人や中高生で炊くルールになっていた。

 田中先生は手先の不器用な先生で、炊飯器で白米を炊いたつもりが、おかゆになってしまう。何度も何度もおかゆにする。
 中学・高校生の多感な時期の女子達は、田中先生を馬鹿にした態度をとっていた。
しかし田中先生は、当たりの強い女子達の言葉に対して感情的になることもなく、さらりと受け流すような大人だった。

 田中先生に絡まれるようになったのは、病院の通院の引率がきっかけだ。

 私は遺伝性のポルフィリン症という病気が生まれつきあるのだが、児童養護施設に行くまでは病院に通っていなかった。
 私の親が適当な毒親だったのもあるが、特に治療方法もないため、正直通院は必要なかった気もする。
だが養護施設側としては、病名を知っていながら何もしない訳にはいかなかったのだろう。

 一応難病指定のされているマニアックな病気のため、大きな大学病院に通っていた。
大学病院の外来は平日しか開いていないため、小学校を休んで病院へ行くことになる。
そして何より待ち時間が凄く長い。
帰宅は夕方になることが多い。


 だがその日は13時頃には病院が終わった。
施設に帰って昼食と思っていたら、田中先生が急に、
「今からサボるということを教えてやろう」
と笑顔で言い、なにやら施設に電話をかけはじめた。
電話が終わると、
「よし!病院は長引いてるってことにしたから〜。今から100円寿司に行こう!」
と言い出したのだ。

 "悪いこと"をする感覚に対して、もう私はソワソワして落ち着かない。
加えて父が義母と再婚してからの2年間、外食は一度もしていない。
公園に連れて行ってもらった時、コンビニでおにぎり1つと魚肉ソーセージ1本を渡された。
義母に「よかったね。感謝しなよ」と言われながら食べた記憶程度だ。

 そんな私だったから、回転寿司は3皿でお腹がいっぱいになってしまった。
 田中先生に何度も「遠慮しなくていいんだよ」と言わせてしまった。
久しぶりの外食で緊張していたのもあるが、悪いことをしている罪悪感から落ち着かず、寿司が喉を通らなかった。

 私の様子を見かねて、田中先生は近くのイオンに私を連れて行った。
児童養護施設に入るとお小遣いは支給されいるが、まだ使ったことはなかった。
田中先生が、
「彼女のプレゼントに悩んでてさ〜。一緒に選んでくれないかな〜?」
と言ってきた。

 田中先生に気を遣われている事に私は普通に気がついていたが、なんだかむず痒くもあり、この先生にどう対応するべきか分からなかった。

「子ども扱いするな。憐れんでいるのか」と反抗的な発言をすべきか、「気を遣わなくていいですよ」と大人ぶったような発言をするべきか、何が正解か、自分の本心はどう思っているのか分からなかった。

 なので気を遣われている事に対しては何も言わず、彼女が可愛い系か綺麗系か聞いて、アクセサリーを選んだ。

 帰りの車の中で田中先生は、
「いや〜、すごい助かったよ〜」
と何度も言われた。言ってくれた。

 今、私は3歳の娘がいるのだが、お片付けやお手伝いをしてくれた時、同じような言葉を言っている。
あの日の田中先生は、多分、君のおかげだよ、君は必要な人間だよってことを私に間接的に感じてもらおうとしていたのだろう。

 「こうやってたまにはさ、サボったり遊んじゃっていいんだよ〜」とも言っていた。
寿司屋の時までは不安や緊張だったはずが、アクセサリー選びに夢中になっているうちに、楽しい気持ちに変わっていた事に気がついた。
ショッピングを義母としたこともなかったから、新鮮だった。

 多分、この日を境に、私の肩の力が徐々に抜けていった気がする。


この後、立ち続けに田中先生と関わる出来事が起きた。


 小学校は、施設の近くにある学校に通っていた。
この小学校では、児童養護施設の子が混じっているのは当たり前の風景のようで、一般家庭の子から特別イジメられたりする事もなく過ごせた。

 一般家庭の女の子2人と仲良くなり、3人でゲームセンターに遊びに行こうと誘われた。
だが私はいまいち遊び方がよく分かっておらず、友達が遊んでいる姿を横でぼーっと立って見ていた。

 そうしていたら、女子高校生2人がいつの間にか私の横に立っていて、声をかけられた。
「お金貸してほしいんだけど」
当時の私はかなり、ぼーっとした子だったのだろう。
(この人お金ないのかな…。でも貸せるほどのお金ないしなー…)
と思いながら黙って女子高校生を見ていた。
黙って立っていたら、友人2人に手を引っ張られ、走らされた。

 凄く走らされて、ゼーハーゼーハーと酷く息切れしながら女子トイレに連れて行かれた。

 「ダメだよ!あれ、カツアゲって言うんだよ。逃げなきゃダメだよ!」
と友人2人に叱られた。
(そうだったのか…!あれカツアゲだったのか!)
と思っていて2人に謝ろうとしたら、女子高校生がトイレに入ってきた。
まあ、結果的にカツアゲをされた(笑)
だがこの女子高校生2人は不思議なことに、
「お金返すから。これ電話番号」
と番号が書かれたメモ用紙を渡された。
かなり不思議だったが、きっと嘘の番号だろうと察した。

 この後は大変だった。
友人は怖かったと大泣き。
親にどこまで言うべきだろうか。報復はあるだろうか。今後脅され続けるのでないだろうか。髪を切ると言い出すし、泣きじゃくる友人の姿に困り果てた。
私がぼーっとしていたので目を付けられたようなものだから、責任や罪悪感も感じていた。
泣いている友人を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 個人の家ではなく、私のような児童養護施設ならば色々動きやすいだろうと思い、「私がこのメモを預かり大人に対応を相談してみる」と言ってすぐに帰った。


 私は養護施設に帰って近くにいた田中先生に、この日あった出来事を全て話した。

 そしたら田中先生はすぐに友人宅の親と連携をとって事実確認をしたり、学校に連絡したりと保護者の対応をしてくれた。
 友人の親から、友人は家に帰ってもずっと泣いていると聞き、胸が苦しくなった。

 一段落ついた後、田中先生が
「君は悲しくないの?悲しい時は悲しいと言ってもいいんだよ」
と優しく声をかけてくれた。

 トイレまで女子高校生が追いかけてきた時、当然今から暴力を振るわれるのだと私は思い、身構えてた。
だが実際には数千円渡しただけで終わったものだから、正直拍子抜けだった。

 だから、田中先生に「悲しくないの?」と聞かれた時、悲しいと思っていなかった自分に気が付き、悲しい気持ちになった。


 自分は他人に搾取されたことになんとも思っていない。搾取されることが当然であるかのように、慣れてしまっていることに気がついてしまったからだ。
惨めでカッコ悪い人間だ。奴隷のようだ。
そう気が付いてしまったら、弱さを隠したくて仕方がなくなる。
傷ついているふりや、怒っているふりをした。
あたかも「感情を我慢していた可哀想な私」を演じて誤魔化していた。


 メモに書いてある電話番号に田中先生が電話をし、後日番号の主とその親、私、田中先生で待ち合わせをした。
当然、カツアゲした女子高校生とは全く違う女子が現れた。
きっとこの女子は嫌がらせを受けたのだろう。
それか逆に友人で、口裏を合わせていたのだろう。
どっちでも良かったが、ここまでの事を施設の先生と確認をしたため、友人達も納得してくれて、この事件は終了した。


 田中先生とは、カツアゲ事件以降からよく話すようになった。

 田中先生は普段はおちゃらけた態度も多く「100円寿司の時も、あれは児童養護施設の先生の対応としてどうだったの?ルール違反なのでは?」と思い、信頼するまでには至らなかった。
 しかしこの事件後から、信頼関係ができていった気がする。



 私が児童養護施設を退園となった日、田中先生は手紙を渡してくれた。
それはいまだに私の宝物BOXに入ったままだ。

 過去6回引越しをして、卒業アルバムは捨ててしまうような私なのに、これは捨てずに残してある。
とてもとても大事に箱にしまってある。

 とはいっても、内容は忘れてしまった(笑)
記事に少しだけ載せてみようと思ったのだが、一文も思い出せない(笑)

 手紙は好きなのだが、まあ、そういうものなのだろう。
私の記憶スペースは小さな湖程度だし、定期的に児童養護施設での生活を思い返す時間も余裕もない。
なにより、歳を重ねてるんだ。養護施設で過ごした日々の記憶はどんどん後ろへ下がっていくのは当然だ。

 こうやって忘れていってしまうのだが、大人が絡んでくれたおかげで私は自分の感情に気がつくことができたり、田中先生には悪かったと思うが、この出来事の後ぐらいからワガママという形で、先生に私のドロドロした感情を押し出す練習をさせてもらった。
 ワガママと言うと言葉が悪く聞こえるが、子どもが"我が、ままに"言葉や態度に出すことを、たまにでもいいから許せる親でありたい。
 久しぶりに娘が癇癪を起こしたのだが、きっと弟が生まれてからずっとずっと我慢を強いていたのだろう。
子が生まれてからというものの、自分の幼少期をよく思い出すようになった。
 私なんかよりずっと毒親の元で育った人たちが、子を生み育てない選択をすることに強く理解できる。私の毒親程度の元で育っただけでも、時折子と過ごす中で息が苦しくなる。もっともっと悪魔のような親元で育った、例えば同じ養護施設で同じ寮にいた、背中に大量のタバコの跡がある2歳と3歳の姉妹のような、あんな悪魔のような大人の元で暮らしていた子達が親となった時本当に苦しい闘いを強いられることだろうから。
彼女らは現在、二十歳頃だろうか。

 田中先生が私にかけた言葉や行動は、別になくても私は死なない。先生も仕事として成り立つ。それでもあの言動があったことで、私のその後の人生の基盤となる"自分の感情と向き合う"ことに繋がったはずだ。

 極論だが、子に愛情をかけたり話を聞かなくても、子は死なない。
食事をして、清潔にして、運動をさせれば死なない。
 でも人は死なないだけが目標では生きていけないはずだから、私は子に絡んでいきたい。
もちろん面倒になる日なんて山のようにあるのだが、自分と他人の感情を考える練習は1人では生まれないことを身に染みてわかっているはずの私ならば、自分にも子にも面倒事をかけあっていきたい。いかなければならない。なぜなら父と義母に虐待され児童養護施設に入れられ田中先生に絡まれた出来事を、自分の人生を作り上げる肥やしの一部にするためだ。



 田中先生から貰った手紙の内容を忘れてしまっていることが申し訳なくなって、手紙をひらいてみた。
 雑な茶色の、線もない段ボールみたいな紙3枚に、青いペン字でびっしりと書かれていた。

"先生は未来、もっとわがままでいいと思うよ。もちろん、わがまました分、責任は自分でとること!その中で、未来はもっとわがままでいいと思うよ。未来はもっと自分の幸せのために頑張ること"

 完全に忘れていた手紙の内容に、まさか"我がまま"という言葉が入っていたなんて。
つい、笑ってしまった。嬉しくなってしまった。
 正直いい歳した30歳の今の私からしたら、田中先生の手紙の内容はとてもありきたりな内容だった。でも、児童養護施設でどんな出来事があったのか多く書かれていた。まるで私がすっかり忘れてしまうことを予見していたようだ。

 あの時弱く小さかった私が、大人になり、児童養護施設に入所していた時の田中先生との出来事を思い出し、記事にして書き、思い出を経て大切にすべきと思えた考えを表出した時、あの時の私に田中先生が伝えたかった、理解してほしかったことに繋がっていた。
やはり、そうだろう。出来事出来事が、こうやって繋がり、積み重なり自分となり、人生になっていくものなのだ。
私はこれから起きていく出来事全てに意味があると今後思ってしまうかもしれない。全てに意味があるなんて、自分を満足させるための錯覚の綺麗事なのかもしれないが、このことでどうやら洗脳されそうだ。
ただ、事実としてあることは、大人が、親が、子に絡むことは人生の肥やしとなるのは田中先生とこの手紙によって立証されたといっても安易ではないと思う。







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